「ランボー 自画像の詩学」(中地義和、2005年、岩波書店)
詩人は目に見えない世界、世界の根源に触れて、それを言葉にしている、と聞いたことがあります。ならば、詩を読んでみよう、できるならば、詠めるようにもなりたい、と思い、いくつかの詩集を手にしてみました。
その一冊がランボーでしたが、まあ、難しかったです。理解できませんでした。頭でわかろうとしてはいけない、理解しようとしてはいけない、とアドバイスも受け、感覚的につかもうともしてみましたが、それでも、言葉が体に入って来ません。
そこで、解説本をと思い、この本を手にしてみました。この本も、かなり難しかったです。それでも、まあ、いくつかのことを学んだと思います。
「夢想を紡ぐ言葉の底から、夢想に甘んじることを許さないより烈しい衝動が湧き上がり、フィクションの構築を覆してしまいます。こうした破調こそ、以後のランボーが書くものにしばしば現われる独特の息遣いです。それは彼のいわば生命のリズム、彼の詩を生み、またそれを突き抜ける根源的な力のようなものです」(p.32)。
つまり、ランボーの詩には、夢想があり、夢想の転覆があり、破調があり、それこそが彼の詩の根源的な力だというのです。なるほど。詩を読むとは、整理された言葉を時間軸に沿って解していくことではなく、ごちゃごちゃ入り乱れた有機物をわしづかみにするようなことなのかも知れません。
「航海や、災厄や、奇怪な花々は――言い変えれば、他なる場所への憧れや、世界を変える願望や、新しい生命の形の希求は、そうした世界を生きる感情的昂揚は、ランボーの詩を突き動かす基本的な力です」(p.57)。
つまり、ランボーの詩は静止画ではなく動画であり、いまある何かを描写しているのではなく、新しい何かを生みだそう、あるいは、吐き出そうとしているということなのでしょうか。
けれども、それだけにとどまらず、その胎動を冷ややかに見ているランボーもいます。「一編の詩が詩的次元のみならずしばしば批評的次元を内包するのが、ランボーの特徴です。切実な感情を表しながら一歩退いてそれを皮肉な目で眺める距離感、高揚を生きながら破綻を見ぬいている意識の二重化」(p.58)。
こうしたさまざまな要素が重ねられ、掻き混ぜられ、ランボーのいろいろなレベルでの意識が、詩の中のいろいろな人物やモノに潜んでいるのですから、やはり、詩は簡単には読めないのでしょう。
この本を読んで、詩を読む力がついたとは思いませんが、詩が難解な理由の一端がわかったように思いました。