474 「自分で自分を編集し続けた生涯」
鶴見俊輔は、自分が経験したことや本で読んだことなどをほとんど忘れない記憶力の持ち主だったという。たとえば、「思想の科学ダイジェスト」を編集する際も、二千にのぼる掲載論文の中から誰かがタイトルを挙げれば、鶴見さんは、数秒間考えたのち、その要約を語り始めたという。
けれども、彼はたんなる再生機ではなかった。彼は経験したことをつねに批判的に考察してきた。経験を編集したのだ。加工や修正ではない。使える知にしたのだ。
祖父・後藤新平はスターリンに「(張作霖は)一種ノ愛国者ナリ」と答える。その張作霖が爆殺されたことを知った幼い鶴見俊輔の胸には「(日本人とは)こうやって人を殺したり、悪いことをするものだと・・・刻まれる」(p.47)と著者の黒川は記している。
鶴見俊輔は17歳でハーヴァードに入学。そこで「組織神学」の講義も受け、汎神論やヒンズー教、サンタヤナなどに接する。それは小学校のころすでに触れていた柳宗悦の神秘への感覚と重なった。そこから学ぶ「日常の神秘のなかに、また一つのプラグマティズムへの回路があった」(p.108)と著者は評す。
日米開戦。交換船で帰国。徴兵。ジャカルタ配属。「捕虜殺害の命令は、偶然にも、自分の隣の同僚に下った。だが、その命令が自分に下っていたらどうしたか?・・・・やはり自分も捕虜を殺したかもしれない。だとすると、戦場で一度は人を殺した者として、自分は、その後をどうやって生きることになっただろうか」(p.155)。
病気のため帰国させられる途中「昭南島」でインドの思想家の英書を入手する。「序文で、著者タゴールは、インドの伝統的な教義の経験から立ち現われてくる生きた言葉の意味は、特定の論理的な解釈の体系によって汲みつくせるものではない、と述べる・・・・・論理的分析を無限に許す日常の神秘の感覚は、日本の皇統だけが万世一系という問答無用の国体論とは対極を示す、東洋思想のあり方だった」(p.159)。
その後、思想の科学、大学教員就任、べ平連、学園への機動隊導入に抗議しての辞任などなど・・・
そして、彼も高齢者になるが、そこでも、経験とそれへの省察は継続される。「『もうろく』を一つの方法として、この日々の断片を記録していくことで、さらに新しい冒険に出られないか、という知的野心を彼は抱く。いまの自分が意識していない自分に、そこで会えるのではないか、ということである。細部の枝葉が落ちていき、大ざっぱな枝の部分が姿を現わしてくるように。彼は、今でも自分に対する編集者なのである」