467 「世界の深奥とわたしたちの奥底にある創造の場」
「創造的空への道 統合・信・瞑想」(八木誠一、 ぷねうま舎、2018年)
たとえば、今のぼくの頭の中には、子どもにはこうさせてこうならせたい、これこれこのような手段を用いてこれこれこのような仕事を得たい、というような思いがあります。このようなぼくを、本書では、「自我」と呼んでいます。自我は自他の人生を「支配」したいのです。
これに対して、いや、ぼくが剛腕を発揮しなくても、子どもたちの人生の道はきっとおのずと開かれる、ぼく自身のつぎのステージへの階段がきっとおのずと現われる、人生を信じよう、世界を信じよう、「おのずと」に委ねよう、神に委ねよう、という声があります。いや、自分に委ねよと招く「おのずと」がぼくの中に存在します。本書が「自己」と呼んでいるものはこのようなものではないかと考えました。
わたしたちとわたしたちが生きる世界がここに存在するのは、偶然ではありません。わたしと世界をここにあらしめる根源の力、あるいは、場があるとしか考えられません。それを、神と呼びます。
そして、この力、この場は、世界の深奥だけでなく、わたしたちの奥底にも働いています。これを、新約聖書では「(生きているのはわたしではなく)キリスト」(パウロ)と呼び、「神の子」と呼んでいます。あるいは、「自己」と言い表すこともできるでしょう。
「自己」は「自我」とは違い、「支配」ではなく「統合」(統制ではない)を促します。本書では「統合心」を「きよらかな、やさしいこころ、平和への願い、真実を求め、語る誠実さ」(p.95)と言い表しています。
著者は、あとがきで、新約聖書の語っていることは「内なるキリスト」つまり上述の自己であり、その働きを、現代の言葉で言えば、「統合」である、とまとめています。
この新約聖書のメッセージは仏教のそれにも並行していることも、本書では何度か述べられています。