(89) 「体の中に溜まっていた重い澱みが、イエスの言葉で、ざあーっと流れ出て行きました」

 いつも子どもに抑え付けるような言い方をする親がいます。部下に有無を言わせない上司、妻に逆らわせない夫もいます。相手の言うことを聞かず、手も足も顎も縛り、身動きをさせず、何も言わせず、ただ自分の言いたいことだけを言い、したいことだけをするような人がいます。その人の前では、こちらは、まるで鋼鉄の鎖を巻きつけられているかのようです。

 そんな目に遭えば、骨や筋を砕いてでも鎖を引きちぎりたくなりますし、ギャーと叫びたくなりますし、あるいは、自分で自分をぼこぼこ殴りつけたくもなります。まわりの人は、乱暴な人間だと思いますが、本人は苦しくて仕方がないのです。本人が一番苦しいのです。

 外から受けた暴力や暴言は過ぎ去れば終わりかと言うと、そうではありません。その暴虐は、受けた人の、今度は、内側に深く入り込みます。心や頭、感情や記憶を乗っ取り、内部からぎしぎしと重圧を加え、その人を苦しめます。

 ところが、ある時、あることによって、あるいは、あることをきっかけにして、その人の内圧を異常に高めていた、苦しい何ものかが、すーっと出て行くことがないでしょうか。人からやさしい言葉をかけられたとか、自分の発したものが誰かに届いていたとか、自分が無条件に生かされていることを教えてくれる美しい言葉に出会ったとか。何か良いものに出会うことで、苦しい何かがさっと出て行ってくれることがないでしょうか。

 聖書によれば、ある人が、悪霊に取りつかれているとされ、町から追い出され、墓場に住まわされていました。人びとはその人を足枷や鎖で縛りましたが、その人は手足の筋肉に怒りを漲らせ、それを引きちぎりました。その手足は、さらには自らの心身を激しく打ちのめしました。自分で自分を傷つけながら、胃袋の底から絶叫し続けました。

 イエスはその人を見て、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言いました。すると、まあ、なんてことでしょう。その人の体中に溜まっていたものが、どどどどっと流れ出て行ったのです。

 その人は、いまや、鎖ではなく服を着て、吼え猛るのではなく静かにすわっています。

 じっさいには、このようにドラマチックなものではなかったとしても、イエスとの出会いにより、自分の中から重苦しい澱みが出て行ってくれ、心にあたらしい清流を迎えることができたと感じた人は少なくなったのではないでしょうか。

 そして、それは、聖書の言葉や物語に触れる人にも、いちどならず、繰り返されていることなのです。 

(マルコ5:1-20)