(84)  「さようならは、その人との再会のはじまりです」

 「さようなら」は別れの言葉ではなくて、いつかはわからないけれども、もういちど会える日が来るという希望。また逢う日を想いつつ、別れる。

 これは、ひょっとしたら、日本のポピュラー・ソングだけが独占しているテーマではないかもしれません。別れには、二度と会わない別れだけでなく、再会を約束したり、予期したり、希望したりする別れもあることは、いにしえから各地の人びとが経験してきたことでしょう。

 天に帰っていった人々との再会は、じつは、珍しいことではありません。教会でオルガンを聞けば、わたしたちはバッハとの逢瀬を享受することができます。古い文庫本を開けば、賢治の「どっどど どどうど どどうど どどう」と共振することができます。

 芸術家ばかりではありません。無名の親しい人が遺した手紙や原稿用紙のインクの文字を目にするとき、あるいは、本棚やレコード棚を眺めるとき、わたしたちはその人たちと一時をともに過ごしているのです。いや、ただ目を閉じ、その人を想うだけで、そこは再会の場所になります。

 あの人たちの、そしてわたしたちの精神は、別れによってゼロになるのではなく、むしろ、純化され、浮き彫りになって来るでしょう。むろん、深みも増していくのですが。

 新約聖書によれば、十字架の死によって弟子たちと別離する前に、イエスは弟子たちにこう語りました。イエスのこころを携え、それを伝える、ある存在が、弟子たちを訪れる、と。

 イエスはそれを「真理の霊」あるいは「聖霊」と呼びました。けれども、それは幽霊でもオカルトでも怪奇現象でもありません。むしろ、「おじいちゃんは死んでしまったけれども、いつでも一緒にいてくれる」という事態に近いものでしょう。

 イエスはこうも言いました。もうすぐ(十字架で死んでしまって)わたしの姿は見えなくなるが、しばらくすると、また、会うことができるよ、と。

 ただし、おじいちゃんは限られた人数のおじいちゃんなのですが、再会のイエスはすべての人のイエスなのです。それゆえに、キリストという救い主の称号を与えられたのです。

(ヨハネ16:12-24)