(53)「非常識な話を常識で断罪するか、それとも、自分の常識の枠を打ち砕くのか」

 わたしたちは、人が言うこと、人が話していることを、わたしたちの常識によって、判断したり、さらには、断罪したりすることがあります。太陽が地球の周りをまわっている、ということが人々の常識だった時代に、いや地球が太陽の周りをまわっている、と言った者は、おそらくよく聞いてももらえないままに、ただちに断罪されたのではないでしょうか。

 つぎのうちのいくつが、あなたの常識からははずれているでしょうか。イエス・キリストの誕生日が12月25日などとは聖書にどこにも書かれていません。キリスト教徒のすべてが神を100%信じ切っているわけではありません。聖書に書かれていることをそのまま鵜呑みにしているわけではありません。

 自分の常識から逸脱しているものに接したとき、わたしたちは、そうか、そんなこともあるのだ、そんな考え方もあるのだ、たしかに、そうかもしれないな、と新鮮に驚くことができるでしょうか。それとも、いや、そんなはずはない、そんな考え方はおかしい、自分には受け入れられない、と拒絶するのでしょうか。あるいは、自分に合うようにアレンジし直してしまうのでしょうか。

 新約聖書にこんな話があります。イエスの弟子ペトロが、イエスのことを「あなたは救い主です、神の子です」と言います。すると、イエスは「おまえは幸せだ。おまえがそのように言えたのは、おまえの人間としての思いからではなく、神さまがおまえにそうわからせてくれたのだ」と絶賛します。

 ところが、しばらくして、イエスがペトロに「わたしはまもなく社会の権力者たちによって苦しめられ、殺される」と言いますと、ペトロは「とんでもないです。そんなことがあるはずがない」と反応します。すると、イエスは「サタン、引き下がれ。ペトロ、おまえは、神の思いではなく、自分の思いで語っている」と答えます。イエスにとって、サタンとは、自分の常識にこだわり、イエスの言葉をわかろうとしないペトロの姿、そのもののことだったのでしょう。

 新約聖書は、イエスはキリスト(救い主)である、というメッセージを送っていますが、それは、ペトロがイメージしたであろう、そして、わたしたちもそうするであろう、魔法の救済術をもった存在ではありません。イエスは、たしかに、奇跡を起こしたりもしますが、最後は、十字架刑で殺されて、墓に葬られてしまいます。たとえ、その後に復活が待っていたとしても、イエスは苦しみや死、弱さ、無力を回避することができなかった、そのような救い主なのです。この非常識な救い主をわたしたちは自分の常識で判断するのでしょうか。それとも、自分の常識を砕くことができるのでしょうか。