B年 キリストの聖体  マルコ14:12-16, 22-26

(以下は、ペルーで働く聖コロンバン会神父、ノエル・ケリンズの「福音書のイエスに今日したがう」からの翻訳です。毎日曜日の福音書の箇所へのコメントですので、原則的には、週に一度更新します。)

 「体」や「血」とは、イエスの人格のことです。この聖体拝領(聖餐式)の焦点は、自らを引き渡し、己を差し出したキリストです。今日の聖書はそのことをわたしたちに教えていることを読み取りましょう。

 他の福音書と同じように、マルコでも、イエスの最後の晩餐は過越祭というコンテキストにおかれています。この点は重要です。パウロもまた、そのことを「キリストは、わたしたちの過越の小羊として屠られた」(一コリント5:7)と言い表しています。

 過越とは「移行」のことです。「転換」です。エジプトという抑圧と奴隷の地から、正義と尊厳の地への移行のことです。「先生が、『弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか』と言っています」(14:14)という言葉はこのことを指しています。聖書全体を通して見ると、このテキストのように、神を礼拝することと正義を行うことの間に密接なつながりがあります。多くの中から、ふたつの例を挙げましょう。

 シラ書34:18-22 「いと高き方は、不信仰な者の供え物を喜ばれず、どれほどいけにえを献げても、罪は贖われない(34:23)」。

 ホセア書6:6 「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」。

 この晩餐において、イエスは聖体拝領を行いました。パンをわかちあったのです。パンは引き渡された体(つまり、キリストの人格)です。イエスのなした過越の晩餐とは、そのいのちを引き渡すことでした。それゆえに、それはサクラメント、つまり、明日実現しようとすることのしるしなのです。じつのところ、イエスはその生全体、その働きのすべて、その宣教、なしたことと語ったこと、わざと言葉を引き渡したのです。十字架は彼のすくいのわざの究極の表現です。それゆえに、イエスは「取りなさい」、わたしはこのパンにおいて自分を引き渡す、と言うのです。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、(新しい)契約の血である」。

 わたしたちはイエスのこの態度で、あるいは、マルコのこのテキストを基礎にして、聖体拝領を祝っているでしょうか。