(80)「いつくしみふかい交わりが、閉ざされた心を開いてくれます」

 立食パーティのように多くの人が集まり自由に語り合う場では、すこし緊張します。親しい人がいない場合は、顔見知りの人をみつけて、なんとか輪に入ろうとするのですが、どうも、ぼくなどが加わるとせっかくのお話しを邪魔してしまうのではないか、などと考えてしまいます。気持ちがどこか閉ざされています。そんなとき、友人の姿を見出し自然な会話を始めたり、あるいは、同じような境遇の人を見つけて話し相手になってもらったりすると、さきほどまでの緊張がほどけていくのがわかります。

家族とけんかをし、激しい口論になってしまい、怒りがおさまらないとき、いや、少し落ち着いてきたけれども、まだまだ、そんなに和やかになってしまうの気まずいとき、気まずさがまだ解けていないとき、ふと、テレビのおもしろい場面におたがいが笑ってしまい、気持ちがさっとゆるんでいくことがないでしょうか。

チューリップの「ぼくがつくった愛のうた(いとしのEmily)」にこんな一節があります。「愛はいつでも不思議なものさ、心の扉を開いてしまう、露にうもれた花びらが、開く音さえ聞えくる」

 閉ざされた心の扉も、愛によって、睦みによって、いたわりによって、ほほえみによって、言葉を交わすことによって、開かれるのです。そして、開かれた心には、つぼみが花開く音さえ聞こえてくる、いや、聞こえくるのです。

聖書によりますと、イエスの死んだ後、弟子たちは、自分たちも殺されるのではないかという恐れから、扉を固く閉ざし、一軒家に閉じこもっていました。ところが、どういう方法でかはわかりませんが、イエスがすっと入ってきて、みなの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言うのです。

 親しい人との死別はほんとうに苦しいものです。悲しみのあまり、心が閉ざされてしまいます。けれども、やがて、氷は解け、扉は開かれます。死は永久のおわりではなく、目に見えない永遠のつながりがあることに気付き、死者がいまでも自分を愛し、そばにいてくれる。このことに触れれば、開かれます。死者の愛を思い出せば、いや、今もつづく死者の愛に触れれば、閉ざされた門も開かれるのです。