「千の風になって」という歌が大ヒットしました。お墓の前で涙を流す人に向かって、死んだ人が、わたしはここにはいません、ここで眠っているのではありません、空の風に、あるいは、秋の光、冬の雪、朝の鳥、夜の星になって、あなたと同じ世界、さらに言えば、あなたのすぐ近くにいます、と歌うのです。
NHKの朝のドラマの「ごちそうさん」では、おばあちゃんは死んだ後、糠床(ぬかどこ)となって、主人公に寄り添いつづけます。ゲゲゲの鬼太郎のお父さんも死んだ後、鬼太郎の目玉になって、鬼太郎を支え続けます。死者は、大切な人は、生きている人の、いわば、日常に生き続けているのです。
聖書によりますと、イエスが死んで埋葬された翌々日、今で言えば、日曜日の朝、イエスと親しくイエスを大切に思っていた女性たちが墓に行きます。すると不思議なことに、墓穴を塞ぐ石がとりのけられ、さらには、天使があらわれ、こう言います。「あの方は、ここにはおられない」。
では、どうしたのかというと、「復活した」と言います。そして、「ガリラヤに行った」と言います。ガリラヤとは、じつは、イエスが人びとと親しく過ごした日常の場でした。イエスはそこで人びとと話をし、飲み食いをともにしたのです。ガリラヤは日常生活の場でした。イエスが復活した、ということは、イエスが親しい人びと、大切な人びとの日常の場に生きている、ということを意味しているのです。
女性たちが、これはとてもうれしいことだ、他の人びとにも伝えよう、と走り出すと、行く手にイエスがあらわれて、「おはよう」と言います。
復活などと言えば、信じがたい超自然現象、非日常のことがらのはずなのに、イエスがさりげなく「おはよう」と声をかけてくるとは、なんとのどかなことでしょうか。
「死んだ人が生き返った」などという話は、たしかに信じがたいのですが、わたしたちは、「おじいちゃんは天から見守っていてくれる」とか「おかあさんはもう目には見えないけれども、いっしょにいて支えていてくれる」などという感覚にはそんなに違和感はありません。イエスのまわりの人たちは、復活という言葉や物語で、どのような実感を伝えようとしたのでしょうか。