(18) 「気持ちをわかってくれる人がそばにいて、その人を愛することの平安」

 ある人と大喧嘩になりました。その人からは絶縁が言い渡され、仕事も断られました。たしかに声を荒げて抗議をしたりしましたが、そこまでの経緯や相手の非もあり、断絶は一方的な暴力のようにこちらを打ちのめし、心身に相当応えました。

 けれども、幸いなことに、その場に友人が一緒にいてくれ、その出来事をしっかり見て、覚えていてくれました。そして、あれはひどかったですね、よくがまんしていましたね、とこちらの気持ちをわかってくださいました。さらには、他にも何人かが、このことのおかしさをわかってくださいました。そうした人びとの存在をとても大事に思い、心が少し平安になりました。

 電車の中で、大人に抱っこされた赤ちゃんと会いました。赤ちゃんはその人の腕の中で、とても安心そうでした。その人にすっかり身を任せていました。その人がそこに一緒にいることを感じないくらいに、その人の存在と一体になっていました。

 ところが、突然、大きな声で泣き始めたのです。どうしたのかな。お腹が空いたのかな。怖い夢を見たのかな。その人は赤ちゃんの気持ちを、いろいろ言い当てようとしました。そうやって話しかけているうちに、赤ちゃんは機嫌を取り戻して、その人に満面の笑顔を振りまきました。その人を好きでたまらない、そんなやわらかな、緊張のまるでない表情でした。

 大学受験。合格者の中に名前がありませんでした。ある程度予想はしていたものの、それでも、とても悲しくなってしまいました。なんだか、すべて嫌になってしまいました。自分だけが取り残された気がしました。

 お茶でも飲もうよ、と友達が声をかけてくれました。わくわくはしなかったけれども、ひとりではさびしかったので、待ち合わせのお店に行きました。ホット、ふたつ。

 落ちたの、悔しいよね。残念だよね。落とされて、腹立つよね。むかつくよね。そう言ってもらって、ほっとしました。残念だったけど、気を落とさずにがんばってね、などと言われたら、もっと嫌な気持ちになっていたことでしょう。ああ、こいつ、好きだな、と思いました。

 聖書によると、イエスは、「わたしはあなたがたに平和を残す。わたしの平和を与える。これは普通の平和とはまったく違う。心を騒がせるな。おびえるな」と親しい人びとに言われました。

 じつは、この言葉に至るまでに、イエスはすでに、三つのことを言っていました。ひとつは、イエスはこれから死んでしまいますが、それにもかかわらず、いつまでも人びとと一緒にいつづけるということです。

 二番目は、イエスは天から人びとのところに「聖霊」を送るが、その霊は「弁護者」として、人びとの思いをともに担ってくれるということです。

 さいごは、イエスを愛しなさい、ということです。

 誰かが一緒にい続けてくれる、その人が自分の思いをわかり、わかちあってくれる、わたしたちがその人をこよなく愛する。その誰かとは、まさにイエスのことです。このことの中に、わたしたちの平和、平安、安心、癒し、慰め、救いがあるとイエスは言うのです。