(74)「規則ではなく、神の愛こそが、人と人を大切に結び合わせます」

 「勉強したか」と子どもたちに聞くと「したよ」と答えますが、教科書を眺めているだけでは、じつは勉強をしたことにはなりません。英語の綴りや基本用語など覚えるべきものは覚える、数学なら学んだ公式や定理を利用して問題が解けるようになる、そして、それらが身に付いているかチェックする、そこまで誠実にやらなければ、本当に勉強したことにはならないでしょう。

 仕事も同じです。職場で時間を過ごすだけでなく、心を込めて丁寧に取り組まなければ、したことにはならないような仕事があります。出勤したということと仕事をしたということは、まったく別のことがらです。

 離婚をするとき、形の上では双方が合意してハンコを押したとしても、たとえば、妻の方の今後の生活がなりたたなければどうでしょうか。ちゃんと納得してハンコを押したから何も問題はない、ですまされるでしょうか。

 新約聖書によりますと、イエスは「離縁状さえ書けば離縁しても構わない」という考え方を戒めました。たしかに、離縁され今は誰の妻でもないということを証明する離縁状がないと女性は再婚することができませんでした。おそらく、当時は、夫の身勝手で棄てられた女性は、再婚する以外に衣食住を確保することが困難だったのではないでしょうか。そして、離縁状があれば再婚の道が開かれます。

 けれども、じっさいは、すぐに再婚相手が見つかるわけではないでしょうし、再婚に頼らなければ生きていけない状態にして放り出すことにも問題があるのではないでしょうか。離縁状を書いたからそれでいいじゃないかは、あまりにも不誠実です。

 結果的に別れることになるとしても、おたがいに誠実に話し合い、なっとくしあい、女性がこれから生きていく道を保証することが必要なのではないでしょうか。

 イエスは離縁状をもたせれば離縁できるという規則を批判しました。さらには、規則よりも大切なものがある、それは、人と人を結び合わせる神の愛だ、と言うのです。

 ただし、それは、神が結び合わせたから離婚をしてはならないということではなく、人と人との間には神の愛があるのだから、人を気にいらなくなったら捨て去るような扱いをしてはならない、たとえ離婚をするにしても、神の愛があいだにあることをつねに意識しながら、相手を大切にし続けなければならない、というメッセージをわたしたちは汲み取るのが良いと思うのです。