岩波書店の瀬田貞二訳から五十年ぶりの新訳。ナルニア国物語全七巻中の第六巻。文体も挿絵も、あたらしいゆえの心地良さが、たしかにある。
ナルニア国物語と言えばアスラン、アスランと言えばキリストの比喩、という解釈が定番だが、この本の解説者は、「アスランはなにか(例えばキリスト)を象徴するために創り出されたキャラクターではない」「アスランは、ルイスの中にむかしからあった『絵』であり、偉大で力強い百獣の王ライオンそのもの」(p.379)と言う。
さらに、ルイスは「『神』という、描写しえないものを描写しよう」とする「方法がうまくいかないこと」(同)知っていた、と解説者はつづける。
たしかに、そうであろう。しかし、もともとはライオンそのものとして描いたアスランを、ナルニア国物語においては、キリストの象徴にする魅力からルイスは逃れられない。ときに、そこから距離をとってもみせるが。
「わたしがあなたがたを呼んだのでなければ、あなたがたがわたしを呼ぶことはなかっただろう」(p.41)という個所を読めば、聖書に親しんでいる読者は、ヨハネ福音書の「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」というイエス(・キリスト)の言葉を思い浮かべるだろう。
他方、「あの、約束してもらえますか? わたしが近くへ行ってもなにもしない、って」と問う子どもに対し、アスランは「わたしは約束しない」(p.38)とつれなく思える態度をとる。聖書では、神の人間への「約束」はひじょうに大きなテーマであるにも関わらず。もっとも、アスランのここでの約束拒否には意図があるのであって、大きな流れでは、しっかり約束を果たすのだが。
主人公の女の子は夢を見る。夢の中にアスランが訪れる。聖書においても、神はしばしば夢を通して人に語りかける。
「子どもたちは小川の中をのぞきこんだ。そこには、金色の小石が敷きつめられた川底に息絶えたカスピアン王が横たわり、王の上をガラスのように澄んだ水が流れていた」(p.359)。けれども、聖書を知る読者は王は悲惨な結末を遂げたと失望することはないだろう。新約聖書巻末のヨハネによる黙示録には「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた」というように、神の世界が描かれているからだ。
このように、ナルニア国物語は、キリストや聖書とのつながりで読めば、やはり、より深い味わいを楽しめるのだ。