(47)「いわく言い難いけれども非常に大切なことを伝える方法」


 子どもらに兄弟の結束の必要性を説くために、毛利元就は、「一本の矢はすぐに折れるが、三本束になると折れにくい」というたとえ話をしました。

 詩人は、「その人は優しく美しい」とは言わず、「愛する人の優しさは花に優り、美しさは星に優る」と歌います。

 大切なことやいわく言い難いことを、少しでもわかりやすく、あるいは、印象深く伝えるために、人は、たとえを用います。

 イエスもたとえを多用しました。イエスが感じていた神の国は、目に見えないにもかかわらず、非常に大切で根本的なものであり、目に見えないゆえにいわく言い難いものでした。けれども、イエスはそれを生き生きと感じており、人びとに伝えないではいられませんでした。

 「神は生きている。そのリアリティはますます大きくなってきた」ことを伝えるために、イエスは植物の成長を引き合いに出します。一粒の種が芽をだし、茎を伸ばし、何十倍にも育っていく、という耕作者なら誰でも知っていることを持ち出し、農民たちに語ります。

 「あれこれ心配しなくてもよい。神がなんとかしてくださる。神を信頼し、神に委ねよう」ということを伝えるために、イエスは、空の鳥や野の花が労働をしていないように見えても生かされ美しく装われているではないか、と人々に説きます。

 「神はあなたが帰ってくるのを切に待ち望んでいる」という言葉だけで感動し慰められる人もいますが、それだけでは、ピンとこない人もいます。だから、イエスは、財産を持ち出し、家出をして、無一文になって帰ってきた息子を駆け寄って迎える父の話をします。

 こうして、イエスの周りの人々は、イエスを通して、神のリアリティに触れたり、思いを寄せたりしたのですが、では、このイエスは何者なのだろう、ということになった時に、「神の子」に違いない、と感じたのです。けれども、これは生物学的な親子関係ではないことはたしかです。

  人びとは、いわく言い難いイエスのことを他の人に伝えるために、「神の子」という表現あるいはたとえを用いたのです。