393 「わかりにくさの中にある、被災者ひとりひとりの本当の声」   「リスクと生きる、死者と生きる」(石戸諭著、亜紀書房、2017年)

 聞きやすいように話す。読みやすいように書く。ぼく自身、牧師として、教師として、わかりやすい言葉を心掛けてきた。

 人の言葉もわかりやすく理解しようとしてきた。けれども、何を言っているのかわからない人の話を聞く時は、わかる部分だけを聞こうとしていた、と白状しよう。わからない部分は、聞き流していたのだ。本当は、そこにこそ、その人自身の声があるかもしれないのに。ぼくが「わかる」と思ったところは、じつは、「この人はこういうことを言っているのだろう」とぼくが性急に決めつけてしまった部分に過ぎないかも知れないのに。

 読むときも同じだ。わかるところに線を引きながら読む。わからないところにはこだわらない。わかったところだけをまとめて、このようなレビューにしてしまう。

 東日本大震災の被災者の声をもぼくたちは「わかろう」としていないか。「わかりやすく」聞こうとしていないか。

 記者である著者は、「この仕事をしていると、いつも『わかりやすさ』から誘惑される」「わかりやすさとは党派性の肯定のことだ」(p.270)と言う。

 言葉にはわかりにくい「揺らぎ」がある。それが削ぎ落とされたとき、「正解」ができ、「当事者の声」という「権力」ができてしまう。けれども、当事者の真の声は、揺らぎ自身なのではなかろうか。

 この本には、著者が取材した相手の言葉が、そのまま載せられている。何ページにもわたる。著者による要約や削ぎ落としをなるべく避けるためだろう。

 その中で、以下のような言葉が心に残った。

 「国や東電に対する怒りは当然あるよ。でも、それは俺の怒りであって他の人に利用されるのは嫌なんだよね」(p.50)。

 「原発のリスクというのは、健康への影響だけではありません。問題を健康に限定してしまうのは、事故の本当の被害を見えにくくしていると思います。本当の被害というのは、生活そのもの。当たり前の暮らしです」(p.226)。

 「原発があったからいいこともあったと思うんです。私の楽しかった思い出は原子力と共に暮らす地域で成り立っていたのですから。でも、そのいいことも破壊してしまう。これが原発事故です」(p.228)。

 「原発に賛成・反対、どこどこは/この食べ物は安全・有害、この説は真・偽」で線引きするだけでは伝わらない大事なものがある。線引きで削ぎ落とされてしまうものの中にこそ、被災者の言葉、いや、被災者代表ではなく、被災者ひとりひとりの個の言葉がある。

 ところで、「福島は安全」を連発する元東大教授へのインタビューも掲載されているが、これはどういう意図なのか。

 わからない。おっと。わかりやすいことは権力であった。著者の声も、このわかりにくさにあるのかもしれない。
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