「14歳からの哲学 考えるための教科書」(池田晶子著、トランスビュー、2003年)
カタカナや漢字の哲学者名、その人びとの用語、唱えたこと。この本にはそんなものは出てきません。そうではなく、池田さんが各テーマについて考える、その道筋、あるいは、地面が掘り下げられる様子が、ご本人によって、実況中継されているのです。
哲学とは考えた結論ではなく、考えることそのものです。けれども、それは、考えるプロセスが大事で、結果は人それぞれ、ということではありません。それでは、考えたのではなく、感じたり思ったりしただけなのです。考えるとは、普遍的な正しさを追求することです。自分の利益や思いつきではありません。その意味で、考えること、哲学は、「言葉」すなわち「精神」と密接に関連しています。
では、「精神」とはなんでしょうか。わたしたちは美しい人や花を見ることはできますが、「美しい」という意味そのものを観ることはできません。誰を、どの花を美しいと思うかは、人それぞれですが、目に見えない「美しい」という言葉の意味は共有しています。何を「正しい」と思うかは人それぞれですが「正しさ」という言葉の意味、「正しさそのもの」はすべての人に共通しているはずです。「精神」はこのような目に見えない言葉の意味に関わると考えられます。
さらに、「美しい」とか「正しい」とかいう言葉の意味はわたしたちが決めたのではありません。つまり、「言葉(の意味)」はわたしたちの「外」にあります。意味、言葉、精神と言った目に見えない現実が存在するのです。
ところで、わたしたち人間は「脳」なのでしょうか。そうだとすれば、自分は「脳」だとわかるわたしたちは「脳」なのでしょうか。それとも、「脳」の外に存在するのでしょうか。それを「精神」と呼ぶのでしょうか。
では、精神はわたしひとりのものでしょうか。それとも共有されるものなのでしょうか。たとえば、偉大な芸術作品に感動できるのは、芸術家が感じ表現しようとした(あるいは、芸術家に降臨した)自分を超えた大きな存在を、鑑賞者も感じているからだとすれば、ここには、精神の共有があると言えるのではないでしょうか。
「原始人も科学者もテロリストも、同じ精神としての自分なんだ。歴史とは精神の歴史だ。人が自分を精神であると、はっきりと自覚するとき、そこには「内」と「外」もない壮大な眺めが開けることになるんだ」(p.150)。
ここまで、来ると、宗教まであと一歩です。「この自分、あるいは宇宙が森羅万象が存在しているのはなぜなのかと、人は問い始めるだろう。この「なぜ」、この「謎」の答えに当たるものこそを、あえて呼ぶなら、「神」の名で呼ぶべきなのではないだろうかと」「御釈迦様やキリスト、いにしえの開祖たちは、みな、この謎の姿を見た人たちだ。決して答えを見出したわけじゃない」(p.177)。
「存在が存在するということは、これ自体が驚くべき奇跡なんだ」「自分が、存在する。これは奇跡だ。人生が、存在する。これも奇跡だ」(p.183)。
存在を存在させる、という奇跡を起こすもの、これこそが、精神であり、この精神は、目には見えないけれども、わたしたちの内にもあり、外にもある、と池田さんは考えたのではないでしょうか。
「宇宙は存在する、存在しないのではなくて存在する、じゃあどうして自分が存在しなくなるなんてことがあるだろうか。何のことを自分だと思い込んでいたのだろう・・・この不思議の感覚、奇跡だという感情は、おそらく、敬虔な信仰をもつ人が神様に捧げる祈りに似ている。自分を超えた存在や力に、自分の心において出会うんだ」(p.184)。
存在は存在し続ける。存在しなくなることはない。わたしたちは死ぬことはあっても、死=非存在は存在しないのだ。イエスの復活に近い、とも感じます。