(69)「こいつが悪い、と即断せずに、もっとじっくり考えてみよう」

 ある講演会のことです。講師は皆に聞いてもらおうと一所懸命に話していました。そして、ほとんどの人は、講師の方を向いて、熱心に聞き入っていました。ところが、その中にひとり、話しも聞かずに、じっと下を見て、手をまったく止めることなくひたすら文字を書きつけている人がいました。講師は、こちらはこんなに気持ちを込めて話しをしているのに、この人はどうだ、心ここにあらず、人の話をちっとも聞かず、何やら自分の仕事のことでメモでもしているに違いない、あとで注意してやろう、と腹を立てたそうです。

 そして、講演のあと、ロビーで歓談の時がもたれました。講師を囲んで、何人かの人が集まっています。そこに、先ほどの講演中に下ばかり見ていた人もやってきました。質問がある、と言います。講師は「なんだ、人の話も聞かないで、自分の仕事のメモばかりしていたくせに」と言おうとしましたが、ふとその人が手に持っている紙を見ると、さきほどの自分の講演内容と質問がぎっしりと書かれていたのです。講師は、ああ、早合点して、その人を裁かなくて良かった、と冷や汗をかきながら、胸をなでおろしたそうです。

 わたしたちは、自分の思いや、自分の得たわずかばかりの情報で、人を判断してしまうことがあります。家族や仕事仲間、友人に対しても、勘違いをすることや、ひどい場合は、先入観を持つこともあります。それはこの人が悪い、と決めつけることがあります。あるいは、自分の意見が正しく、相手の考えは間違っている、と即座に切り捨てることがあります。

 社会に目を向けますと、わたしたちには、外国人は怪しい、悪いことをしているのではないか、精神疾患を持っている人は怖いのではないか、といった偏見があります。

 けれども、わたしたち人間は他の人間に対して早急な判断をくだすことができるのでしょうか。それは、じつは、判断ではなく、無知や無知が生み出す不安や恐れなどによる決めつけです。

 それは、考えているのではありません。けれども、本当は、わたしたちは考えなくてはならないのです。そして、考えるのには時間がかかります。時間をかけて考えつづけなければならないのです。

 聖書によりますと、イエスはこんなたとえ話をしました。ある農園の主人が良い麦の種を蒔きます。ところが、夜中に、悪党がやってきて、悪い麦の種も蒔いてしまいます。畑には、良い麦と悪い麦が混在し、しもべたちは、悪い麦を抜きましょうか、と言いますが、主人は、そのままにしておけ、良い麦も抜いてしまうかもしれないから、と言います。

 わたしたちも、先入観や偏見、十分な考えなしの拙速な決定で、人を良いとか悪いとか判断していないでしょうか。ことに、悪いと決めつけ、葬り去ろうとしていないでしょうか。

 時間をかけて考えれば、わたしたちは、人をひどいめに遭わせてしまったり、捨ててしまったりしなくてもすむかもしれないのです。