(59)「目に見えない神を垣間見るためのレンズ」

 「レ・ミゼラブル」(「ああ、無情」)という小説はとても有名ですが、文庫本で全四巻にわたる長編であり、ストーリーの展開や場面描写、登場人物のせりふ以外に、著者ヴィクトル・ユゴーの哲学や思想の展開が延々と続くので、作品そのものを読んだことのある人は、じつは、あまりいないそうです。

 ぼくも、同様で、映画で観たり、「レ・ミゼラブル」の「入門書」を読んだりはしましたが、小説を直接知っているわけではありません。プラトンとかカントとかマルクスとか、難しそうな思想家についても、おなじことで、彼らの著作を直接読んだことはなく、「哲学入門」「カント入門」といったものを通して、垣間見ただけです。

 聖書についても、似たようなことがあります。聖書は直接読んでもなかなかわかりにくい個所がいくつもあるので、やはり、聖書入門のような解説書が頼りになります。

 けれども、入門書の著者たちは、当然、小説も哲学書も聖書も、じかに、しかも、深く知っているのです。

 わたしたちは、自分が直接触れるのが難しかったり、直接理解できなかったりするようなことがらについては、わたしたちとそのものとのあいだに、眼鏡のような、レンズのようなものをおくことがあります。

 聖書を読みますと、イエスは、「神の子」と呼ばれたり、自分は「父」(神)と一体だとか、自分は(神への)「道」だとか、言ったりしています。

 イエスの「神の国が近づいた」「空の鳥、野の花を見よ」といった発言を見ますと、イエスは、神がこの世界にいきいきとして存在すること、また、動物や植物にいのちを与えていることを、まざまざと感じていたように思います。

 イエスは、わたしたちより、他の誰より、はるかに強く、神という目に見えないリアリティを感じ、知り、そして、それを、言葉やたとえ話、行動で、他の人々に伝えようとして、かなり成功したのではないでしょうか。

 イエスをレンズとして神に触れた人びとは、イエスを「神の子」と呼び、「道」と名付けた、と思うのです。