375  「ジャン・ヴァルジャンはあるキリストだった」

「『レ・ミゼラブル』の世界」(西永良成、岩波新書、2017年)

 レ・ミゼラブルのストーリーの内部と、ナポレオン一世、三世の時代のフランスや作者ユゴーという物語の背景あるいは外部。このふたつがこの一冊にコンパクトにまとめられています。

 簡潔に、とはいうものの、「第1章『レ・ミゼラブル』とはどんな小説か」を読むと、スクリーンで観ただけのぼくには、ああ、シネマ版は小説のこのようなエピソードを省いたり、これとこれをまとめたりしたのだな、とわかる程度のていねいさは備えられています。 

 映画では、始めの方でジャン・バルジャン(以下JV)が神父に罪を赦され、最後の方で自身も自分を迫害し続けてきたジャヴェール警部を赦すという枠組みが印象的だったのですが、本書でも、警部のみならず、JVが育てたコゼットと結婚しながらJVを疎んだマリユスや、やはりJVを悩ませ続けた悪漢テナルディエをも許したことも挙げられ、これらには罪人を赦すキリストのテーマがあると指摘しています。

 小説の中には「徒刑囚がキリストに変わりかけていた」という一文があるのですが、そう言えば、新約聖書のイエスも十字架という刑を受けた囚人でした。ユゴーは、宗教制度としてのキリスト教には批判的でしたが、彼なりの肯定的なキリストのイメージを持っており、それをJVに重ねているのです。

 小説では、お尋ね者であることを隠して市長になっていたJVが、別人が彼と間違えられ刑務所に送られそうになっていることを知り、真実を語るべきかどうか逡巡する場面があるのですが、これは、受難前夜にゲツセマネの園で悩み血の汗を出しながら神に祈るキリストをモチーフにしているとのことです。

 あるいは、JVは力持ちで、襲いかかる者と揉みあうときも強いのですが、けっして人を射殺しません。戦闘には加わりません。人を殺すことを自らに禁じているのです。これもイエスを想わせます。

 重傷を負ったマリウスをかついで地下水道を進む章は、まさに「彼もまた十字架を背負う」と題されています。

 「大砲の弾は一時間二千四百キロメートルしか飛ばないが、光は一秒間三十万も進む。イエス・キリストがナポレオンに優るのはまさにこの点だよ」。これも小説中の人物の言葉。

 「ナポレオン」のところを現代人の名前に入れ替えたいという衝動に駆られます。

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