(52)「毒ではなく薬をもって毒を、悪ではなく正義を持って悪を制す」

 「毒をもって毒を制す」という言葉があります。悪人の気持ちは悪人の方がわかるとか、悪人の方が悪人の扱いには慣れている、あるいは、ワクチンのように、毒によって毒を抑える、というような意味合いもあるようですが、以下のような場合もあてはまるかも知れません。

 AくんがいじめっこBくんにいじめられているとします。そこにもうひとりのいじめっこCくんがあらわれ、Bくんをいじめます。AくんはうまくCくんの配下に入り、Bくんのいじめから解放されます。けれども、どうでしょうか。Aくんは、今度は、Cくんからいじめられる可能性はないでしょうか。

 DさんはEさんにひどい目にあいました。ところが、FさんがEさんをやっつけようとしていることを知りました。けれども、DさんはFさんのことも倫理面で良く思っていませんでした。DさんはFさんにEさんのひどさを訴え、Eさんがやっつけられてしまうことを期待すべきでしょうか。けれども、そうすれば、Dさんは良く思っていないFさんと同レベルになってしまわないでしょうか。

 毒をもって毒を制すことには、現実的、実践的な面がありますが、ひとつの毒は消えてしまっても、もうひとつの毒が残ります。より強力な毒になるかも知れません。ならば、毒は毒をもって制すのではなく、毒ではないもの、無毒なもの、いや、毒は薬で制した方がよいのではないでしょうか。じっさいの医療では、薬はリスクとも言われていますが。

 表現を変えれば、悪は悪をもって制すのではなく、悪ではないもの、正義で制すべきではないでしょうか。都合の良い正義ではなく、歴史の中で練り上げられてきた普遍的な正義でもって。

 大声を制すのは別の大声ではなく、沈黙ではないでしょうか。憎しみには憎しみではなく愛を、争いには争いではなく赦しを、分裂には一致を、疑いには信頼を、誤りには真理を、絶望には希望を、闇には光を、ではないでしょうか。

 聖書によれば、目が見えず口が利けない人が、イエスによって、目が見えるように、口が利けるようにされました。当時、病気や障がいを持っている人は悪霊に取りつかれていると思われていて、ある人びとは、イエスは悪霊に優る神の子だと考えましたが、ある人びとは、イエスは悪霊に優る悪霊、悪霊の頭だと思いました。

 つまり、イエスが病気の人びとを癒すのは、神の力なのか、悪霊の力なのか、見解が分かれたのです。それに対し、イエスは、自分が悪霊の力を使って他の悪霊を追い出しているのなら、内輪もめだ、悪霊で悪霊を制すことはできない、わたしは神の力で悪霊を制しているのだ、と答えます。

 イエスもまた、悪の力を乗りこえるには、悪とは正反対の力が必要だと考え、また、悪にまさる神の力が世界や自分には働いていると信じていたのです。