(51)「こうしたらこうなったという怪しい実証主義の虚しさを超える人生の支え」

 わたしたちはお腹が空いていると何かを食べたくなりますが、心が空白のときも、まるでそこをギュウギュウ詰めにするかのように、ポテトチップを一袋ぜんぶ食べきってしまうことがないでしょうか。

 心や気持ち、精神が満たされないとき、むなしいとき、わたしたちは何でそれを満たそうとするでしょうか。食べ物だけでありません。スマホ、おしゃべり、映画、お酒、睡眠、仕事・・・。ほかにどんなものがあるでしょうか。けれども、それは束の間の満腹で、また、すぐに空腹がやってきます。本当は、もっと有意義なもの、人生を充実させてくれるような何かがあるような気がしているのではないでしょうか。でも、それが何だかはっきりとはわからないのではないでしょうか。

 あるいは、わたしたちは、「これをやったらこんな良いことが起こった」「何日間で効果が出た」「何円儲かった」、このようなキャッチフレーズに弱くないでしょうか。じつは、小さく「効き目には個人差があります」とか書かれているにもかかわらず。

 わたしたちは、数学の公式や自動販売機のように、こうすればかならず結果が出る(と謳う)ものについ手を伸ばしてしまいます。証拠になるような誰かの経験、結果とやらに惑わされてしまいます。けれども、他方で、人生においては、実際の結果はさまざまであることを何度も経験していますし、「結果がすべてではない」という常套句も知っています。

 新約聖書によりますと、イエスは荒野で悪魔の誘惑を受けます。最初は石をパンに変えて空腹を満たせ、というものです。それに対して、イエスは、「人は神の言葉によって生きる」と答えます。人間の抱える空白、虚無は、食べ物では満たせない、空白は根本的なものであり、それを満たすものは、神さまのような、やはり、根源的なものだ、とイエスは言おうとしていたのではないかと思います。

 悪魔はつぎに、神が助けてくれるかどうか調べるために、高いところから飛び降りてみろ、と言います。これに対して、イエスは、神を試してはならない、と言います。証拠となるようなこれまでの「結果」、過去の結果(データ)に基づくという「絶対」とやらを、イエスも怪しんでいたのではないでしょうか。

 人生に必要なものは、証拠に基づいているから安心と思えるようなことよりも、むしろ、証拠なしの(それゆえに、不安もともなう)信頼と希望ではないでしょうか。そして、イエスは、目に見えない(=証拠なしの)神に信頼し、「人生はこうなると決まっている」という「計画」ではなく、「人生には(どのようなものかは分からないけれども)道が開かれる」という「希望」を神から受け取ったのではないでしょうか。