(23) 「自分で種を播いたわけではないが、畑はもう実っている」

わたしたちは、自分に必要なものはみな自分で手に入れる、自分が持っているものはみな自分で獲得した、と思っているかも知れませんが、ほんとうにそうなのでしょうか。たしかに、着るもの、食べたり飲んだりするもの、住むところ、本、CD、電気製品、家具、PCなどは自分で手に入れたと言えるでしょうが、たとえば、空気はどうでしょうか。

大地や空はどうでしょうか。言葉はどうでしょうか。言葉はわたしたちが習得したものではあっても、創り出したものではなく、わたしたちが生まれた時から、日本語や英語は、ここに用意されていたのです。

文化もそうです。たくさんの芸術作品が、わたしたちが生まれる前からこの世界に存在し、あとから生まれてきたわたしたちを楽しませてくれます。作品だけでなく、音楽や絵画、演劇、文学といった形式も、わたしたちが生まれるずっと前から存在し、あとから生まれてきたわたしたちはそれを使うことができます。このように、わたしたちは自分で用意しなくても、ずっと前からそこにあるものを用いることが許されているのです。

彫刻家は、像を創り出すのではなく、像でない部分を削り取ることで、石や木の中にすでにあるその像を取り出すと言います。教育を意味するeducation(エデュケーション)という英語は、助産師さんが母親の胎内から子どもを取り出すように、子どもの中にすでにある何かを引き出すことを意味すると聞いたことがあります。

わたしたちは、他人や子どもに何かを教えようとか育てようとかしてしまいますが、じつは、その人や子どもは、すでに自分で何かを知り、自分で育っているのではないでしょうか。わたしたちは、むしろ、それに気づくべきであり、わたしたちができることは、せいぜい、相手はすでに育っていることを、相手に気づかせることくらいではないでしょうか。

聖書によれば、イエスは、「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」と言いました。あるいは、「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れる」と。

わたしたちは、なんでも自分の手で、というのでなく、すでにそこに実っているものに気づき、それに感謝したり、相手が人であれば、その人にはすでに実りがあることを認め、尊重したりすることも大事なのではないでしょうか。