(63)「幼子のように全体重を世界に委ねる」

 わたしたちは、いろいろなことが心配です。お給料が下がらないか、会社をクビにならないか、つぎの仕事が見つかるか、見つからなかったらその間どうやって生きて行こうか。これは、非常に深刻な問題です。お金がなければ、すぐに食べることができなくなりますし、住む家も失ってしまいます。あるいは、借金を抱えることになってしまいます。

 心配とはっきり区別しにくいのですが、わたしたちには不安や恐れもたくさんあります。地震や水害が起こらないか。戦争が始まらないか。病気にならないか。子どもたちがそれなりにゆたかに生きられるように進学や就職ができるか。高齢の親が毎日を穏やかに健康で過ごすことができるか。

 心配や不安に加えて、わたしたちは、満たされない思いや後悔の念も背負っています。自分の積み上げてきた成果や養ってきた実力が、先入観や組織の筋によって、あるいは、世間の空気によって、軽く見られている、顧みられていない、そういう悔しさや憤りが重く溜まっています。

 あるいは、あの人にあんなことを言わなければよかったとか、あの時あんなことをしなければ良かったとか、取り返しのつかないことをしてしまったとか、あの人を傷つけてしまったとか、という悔いの想いをも、わたしたちは心の底にヘドロのように沈めています。

 けれども、子どものころ、わたしたちは、もっと身軽でした。こんなに大きなもの、こんなにたくさんのものを背負っていませんでした。たしかに、子どもも、人との接触を通して、痛みや傷を重ねていくのですが、それでも、心配や不安や不満や後悔の念よりも、この世界は信頼できる、まわりの大人が助けてくれる、そういう信頼感が強く、悩むよりも、委ねることの方が勝っていたのではないでしょうか。

 聖書によりますと、神は大切なことを智者や賢者ではなく幼子に示した、とイエスは言いました。抱えている心配や恐れ、不満や後悔について、自分の考えに頼み過ぎて、思い煩うより、幼子のように、自分とまわりを信頼し、委ねること、とくに、神に委ねることの大切さを示そうとしたのではないでしょうか。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。

 イエスは、ああしなさい、こうしなさい、あれもしなさい、これもしなさい、と人びとに強いませんでした。わたしたちは、自分や他者に、あれもこれも求めすぎて、疲れさせ、重荷をおわせてしまっているのとは、正反対です。

 あれが心配だから、ああしなければ、これが心配だからこうしなければ、とあれこれ思い悩むよりも、子どもの時のように、自分やまわりを信頼して、さらに言えば、生きている世界を信頼して、もうひとつ言えば、神に委ねて、重荷を軽くしよう、とイエスは招いているのではないでしょうか。

 神に委ねるとは、神がいるとかいないとか頭の中で考えることではなく、子どものとき、まわりのおとなや布団に全体重を任せた、あの信頼の感覚に近いのではないでしょうか。