(87)「わたしたちの親子関係は、神さまとわたしたちの関係に良く似ています」

 「そして父になる」という映画がありました。出生時に病院のミスで、子どもが他の家の子どもと取り違えになってしまいます。小学校入学時にそれが発覚し、そこから、登場人物たちは、親子とは何か、という大きな問いを抱え、苦しんだり、喜んだりすることになります。

 わたしたちは子どもが生まれた時点で、あるいは、子どもを迎えた時点で、親になります。けれども、それだけで、本当に親子関係ができたと言えるでしょうか。親子の深い絆、信頼関係が、ともに過ごす経験の積み重ねによって築かれるのであれば、親子になるには時間がかかるのかも知れません。

 しかし、もう一度考え直すならば、出発点から、親は子どもを育てようとしますし、乳児の場合そこにいる大人を最初から(無意識でも)親として位置づけているのではないでしょうか。つまり、親子関係は最初からあるとも言えますし、築き上げていくものだとも言えるような気がします。

 聖書では、神は「父」と呼ばれます。人間は神によって創られたからです。神からいのちを与えられたからです。ですから、生まれた時点で、神とわたしたちの間には親子関係があるのです。

 ところが、聖書をめくって行きますと、神の愛、神の心を受け入れる者は神の子とされる、というような表現も出てきます。わたしたちは生まれたときから神と親子関係であったはずなのに、あらためて、こういう形で神の子とされるとはどういうことなのでしょうか。

 わたしは、「神さま、いのちをお与えくださり、今日まで育んてくださり、まことにありがとうございます」と祈ります。神と親子であるという事態には、いくつもの場面があるのでしょう。この世に生を受けるという場面があります。育てられるとはとても長いプロセスですから、さらにいくつもの場面があるでしょう。病気を乗り越えるというような場面、学校に入学する、卒業するという場面、人と出会う、別れるという場面もあるでしょう。

 それに加えて、神の愛をはっきりと感じる場面、神の心に触れるような場面
神を信頼できると痛感する場面もあるでしょう。

 人間の親子関係同様に、神との親子関係にもいくつもの場面があります。いや、人間の親子関係の方が、じつは、神とのそれを映し出しているのかも知れません。

(ローマ8:14-16)