(35)「遠くを見て歩くための光」

 校庭に石灰で線を引いたことがありますか。白くすっと伸ばすのは、なかなか難しく、すぐに蛇のようにくにゃっとなってしまいます。砂浜をまっすぐに歩くのも、簡単ではなく、足跡はどうしてもくねくね波打ってしまいます。

 けれども、校庭では、これから引く線の延長線上にある木や教室の窓などをじっと見ながら線引きを押せば、うまく行くようです。海岸でも、やはり、遠くの松や沖の島、灯台をしっかり見つめて歩けば、まっすぐに進めるようです。

 わたしたちは、どうも、目先のことにとらわれがちです。たとえば、子育てですと、子どもの一挙手一投足、一回一回のテストの点数、どこの高校、大学に行くのかに気を奪われ、親も一喜一憂してしまいがちですが、ほんとうは、子どもの30歳のころの姿、50歳のころの姿、いや、人生を終えるころの姿をも、親は想像すべきなのかも知れません。

 もちろん、親は子どものどの時点の姿をも規定したり、作成したりすることはできませんが、それでも、子どもの足もとばかりでなく、遠くを見ることも大切ではないでしょうか。足もとばかり見られる子どもは、遠くまで歩いて行けなくなってしまうかも知れません。

 わたしたちの人生についても、いまのこと、目先のことだけでなく、生まれてから死ぬまでの大きな流れとして眺めることができればよいのではないでしょうか。いま起こっていること、いま自分を翻弄している渦は、とても苦しいものであっても、人生を終える時は、それも含めて、ああ、いろいろあったけど、よい人生だった、そう言える生き方をしたいと思います。

 それには、足元だけでなく、人生の道のり全体を照らしてくれる光が必要なのではないでしょうか。

 聖書によれば、イエスはこんなことを言いました。「昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ」。

 「この世の光」とは、神のことでしょう。イエスは、人生にどんな困難が起こっても、神が光となって道のりを遠くまで照らしてくれるから、きっと歩き通すことができる、と教えているのではないでしょうか。

 懐中電灯では数歩先までしかわかりませんが、天からは、旅の全行程を見渡せそうですし、そこからの光は、出発からゴールまで照らし出してくれそうです。