331  「憲法九条は最高のプレゼント」  「憲法の無意識」(柄谷行人、岩波新書、2016年)

憲法九条は、アメリカから押し付けられたものでしょうか。あるいは、日本人が自主的に選択したものでしょうか。柄谷(カラタニ)さんは、それ以前に、日本人の集団的無意識の問題だと唱えます。

無意識と言えばフロイトですが、フロイトによると、戦争を経験した人を悩ませる戦争神経症の患者さんに繰り返し起こる強迫(手を何度も洗わないではいられないとか、夢で思い出してうなされるとか)は、自分の持つ攻撃性への糾弾、そして、戦争への無意識の批判を意味するそうです。

それになぞらえて言えば、憲法九条は直近の侵略戦争批判ということになりそうですが、柄谷さんは「憲法九条が根ざすのは、明治維新以後七七年、日本人が目指してきたことの総体に対する悔恨」「『徳川の平和』を破って急激にたどった道程への悔恨」「徳川の『国制』こそ、戦後憲法九条の先行形態」と言うのです。ただし、九条が日本文化に根ざしているとか、徳川時代を賞賛するとかいうことではない、と付け加えられています。

徳川時代と第二次大戦後の日本にはいくつか共通点があると柄谷さんは言います。象徴天皇制、非軍事化、戦闘をしない武士と自衛隊員・・・。

こうした歴史の反復、あるいは集団的無意識は、人間の意識的な選択よりも根が深く、信頼ができるということでしょうか。

人間の意識を超えているという意味では、憲法九条には、ある種の良質な宗教性があるのかも知れません。柄谷さんによれば、右の頬を打たれれば左の頬を出す、というイエスの態度は、「贈与」の態度です。「しかし、それはお返しを迫るような贈与とは違います。たとえば、神に祈るとき、それはたんに祈るのであって、神に願いごとをかなえるよう迫ることではない。だから、私はこのような贈与を純粋贈与と呼びます」「日本の戦後憲法における戦争放棄は、敗戦国が強制的に武力を放棄させられることとは違います。それは何というべきでしょうか。私は、贈与と呼ぶべきだと、思います」(p.128)。日本はすすんで武力を放棄したという事実を、他国に贈与するのです。

歴史は良いことばかりを反復するわけではありませんし、無意識のなかには攻撃的なもの、私利私欲的なものが多いのではないかとも思います。

けれども、九条の文言は、薄っぺらな人間の考えではなく、歴史や無意識の分厚い良質の部分に根ざしているように思います。そして、九条は、諸外国への贈与であるばかりでなく、住民への贈与であり、さらに言えば、歴史、無意識から、わたしたち人間への贈与ではないでしょうか。

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