「山上の説教から憲法九条へ 平和構築のキリスト教倫理」
(宮田光雄著、新教出版社、2017年)
宮田光雄先生の講演と論文集です。論文と言っても、一般読者に歯が立たないようなものではありませんでした。
第1章は「右の頬を打たれたら左の頬をも向けよ」。これは、山上の説教をもとに現代世界に平和を築くことを論考したもの。第2章は「兵役拒否のキリスト教精神史」、これは、イエスから古代教会、宗教改革、現代まで。もともとは兵役完全拒否でしたが、コンスタンティヌス以降「聖戦論」が登場し、ルターらにも引き継がれてしまいます。第3章は「近代日本のキリスト教非戦論」。内村の非戦論が述べられています。第4章は「非武装市民抵抗の構想 日本国憲法九条の防衛戦略」。非武装であることこそが侵略者への最大の抵抗であること、それには民主主義的な価値観が浸透した社会が準備されていなければならないことが述べられています。
「イエスの言葉は、その当の人間が、まず、自己自身のうちに悪を認識することを促している。みずからの内なる悪を否認し、みずからの影を認めない者は、じっさい、それを他者に向かって投影し、それを他者に帰するであろう」(p.37)。
憲法、とくに、九条はまさに、日本のアジア侵略という悪の歴史の認識を前提にしています。だからこそ、善なる平和を求めているのです。最近の政府は、まさに、その悪を否認するために「改憲」を企て、それを批判する者を「悪」として攻撃するのでしょう。
「重装備によって守られた《ローマの平和》は帝国の外形を維持するだけにすぎない。しかし、キリスト者の内側に築かれる《神の平和》は、暴力なき愛敵の精神において兵役拒否の倫理を生みださずにはいないであろう」(p.98)。
沖縄の反基地闘争は、この兵役拒否の倫理に完全に重なるものでしょう。非暴力によって非暴力の社会を築こうとしているのです。国会前や各地の政府批判行動においても、当然、これが貫かれていると思います。抗議、批判の行動そのものに、すでに、《神の平和》が現われるようなものでなければならないでしょう。言い換えれば、抗議、批判は、まさに《神の平和》の表れなのです。
オリゲネス曰く「たしかに、われわれは、王とともに戦いの野には赴かない。たとえ彼がそれを要求するにしても」(p.104)。
徴兵制がまだない現在、反基地、反安保法制、反共謀罪、反・民主主義破壊こそが、「兵役拒否」でありましょう。
ところが、アタナシウス曰く「戦争において敵を滅ぼすことは適法であり、また賞賛に値する」(p.116)となってしまいます。さらに、「ルターは、アウグスティヌスにもとづいて、戦争を犯罪の処罰、平和のわざ、じっさい、愛のわざとさえみる」(p.126)にいたります。しかし、現代については「エキュメニカルな教会組織こそ、普遍的課題としての平和奉仕の新しい次元を切り開くことを可能にするのではなかろうか」(p.154)と述べておられます。
教会組織だけでなく、抗議活動のさまざまな現場において、仏教者、他の宗教者とも、平和の課題で連帯する光景が見られます。
内村曰く「世に迷想多しといえども、軍備は平和の保障であるというがごとき大なる迷想はない」(p.178)。「内村の再臨運動は、本来、終末論的な観点からする時代批判の運動であったといわなければならない」(p.185)。
(内村は)「真に国民を生かすものは、軍事力でも経済力でもなく《信仰》である。いわば人格の尊厳や個の確立、普遍的な価値に開かれた国民的エートスの育成にある、と説くわけである」(p.213)。
ここで、《信仰》が「人格の尊厳や個の確立、普遍的な価値に開かれた国民的エートス」と言い換えられていることに注意を引かれます。両者が完全に一致するとは思いませんが、すくなくとも、信仰者はそのようなエートスを持つべきでしょうし、また、そのようなエートスは広い意味では「人間を超えた存在を畏れる」精神に基づくのではないでしょうか。
「日本国憲法は、自由と解放、平等と公正をふくめたガルトゥングの『積極的平和』概念と内容的に対応しています」(p.255)。
そして、九条は山上の説教の平和実現と愛敵・非暴力の系譜にある、というメッセージが本著からは伝わってきます。