皆さん、こんなに簡単に誰かと恋愛関係になったり、AやBやCになったりするものなのかと、感心したり、うらやましく思ったり(※)、首をかしげたりしながら読みました。まあ、そういう話を、リアルでも聞かないわけではありませんが。
(※半世紀の人生、いろいろな人を好きになりましたが、相手からも好かれた例は、ほんのわずかです。)
早く言えばそういうお話し、でも、それに肉付けしたというか、それは舞台に過ぎないというか、それ以外のさまざまなテイストを持つ数頁の短編小説が三十。
この本には深いメッセージがあるのか、そもそも小説がメッセージなどを持つものなのか、ぼくには測りかねますが、こんなことを思いました。
「求愛」という題ですが、求愛とは、「ぼくのことを」「わたしのことを」「好きになってください」ということかと。
そして、「恋」とは、好きな人に、ぼくのこと、わたしのことも好かれたい、ということかと。
ならば、「恋愛」とは、好きな人と好き同士になりました、ということでしょうか。
さいごに、おもしろかったところを、三か所。
「教会の葬式で、昨夜はじめて逢った牧師が、故人の人徳と信仰の深さを讃え、つづいて、次々、教会の友人が立って、故人の並々でない献身や、慈悲深さの陰徳を語っている。私は今になって自分が妻という人間を、全く理解していなかったことに呆然としている」(p.18)。
葬儀の時の牧師の説教はこんな内容なのか、そのように思われているのか、信者でない配偶者が葬儀の時どんなことを思うのかを想像するヒントになりました。
「六十過ぎて思いがけず訪れた遅い文運だった」(p.47)。
55歳にもまだその機会はあるかも知れないと妄想してしまいます。
「瑛太に散々バカにされながら、今度のデモにSEALDsに参加して出るようになってから、人生観が変わっちゃったの。だって今の総理の断行しようとする戦争法案が通ったら、瑛太も戦争へ引っ張られるのよ。女だって召集されるのよ。私たちの未来はつぶされるのよ。そんなのイヤ、絶対イヤよ」(p.141)。
「今、好きになった涼は、このまま今の政府の好きにさせれば、アメリカのお尻にくっついて、私たちは、戦場で殺されるはめになるって言ってます。私も段々そんな気がしてきた」(p.141)。
「瑛太は笑うけど、デモってる時って躯の中が透明になって、自分のことなんか無くなっちゃう。みんなで生きようって、高揚した気分が躯いっぱいにみなぎってくる・・・・・瑛太、わかって。私は瑛太のきらいなデモに行きつづけます」(p.142)。
寂聴さん、昨夏、国会前にも来ていましたね。デモは恋やABCに匹敵する、あるいは、それ以上ってことなのか。恋やABCよりデモってことなのか。わかりませんが、戦争になれば、恋愛もABCも皆殺されてしまいます。
いいえ。沖縄では数十年の間に何百人もの恋人と恋が殺されてきました。
恋愛ができる世を取り戻す。求愛はこうでありたいと思いました。