326  「視覚によって、さらにゆたかな霊性を汲む」

ロシア正教のイコン」(メドヴェドコヴァ著、黒川知文監修、遠藤ゆかり訳、2011年、創元社

花や木、川、空。さいきん、美しいものは、神の美しさの現れだと思うようになってきました。すると、毎日の風景が、味わい深く、楽しみになってきます。

昨秋、版画に墨書で詩を付した「白い鹿」という画集を見て、神秘の窓口のような絵をもっと見つめてみたいと思い、コンパクトではありますが、ロシアの聖画を色刷りでたくさん載せているこの本を求めました。

イコンと呼ばれるロシア・キリスト教の聖画。けれども、これには、つねに「偶像崇拝」の容疑がかけられてきました。はたして、どうなのでしょうか。

監修の黒川さんはイコンを「遠近法を無視し、人物には影もなく、顔の作りや姿も画一的」「荘厳だが原始的で、子どもが描いたような稚拙な絵にも見える」(p.1)と言い表しています。そして、「神学的に見て、イコンは偶像ではなく、それを通して神を見るもの」「民衆の立場では、奇跡の力を宿す『聖なるもの』」「今日のロシア人の宗教性を象徴するもの」(p.2-3)と評しています。

では、イコンの歴史においては、どう考えられてきたのでしょうか。

8世紀のダマスカスの聖ヨハネによれば「イコン崇拝とは、像を敬うことを通して、その像の原像、つまり、創造主である神に語りかけること」であり「一方、偶像崇拝とは、像そのもの、つまり創作物に加護を求めることで、イコン崇拝とはまったく異なる概念」(p.36)だということです。けれども、イコンそのものに加護が求められた歴史もこの本は隠していません。

ヨハネはさらに、「肉体をもち、人間の姿でこの地上で生き、人びとのあいだで想像を絶する善良さを示した神、人格や肉体の厚みと形と色とをもった神、その神の姿をわれわれは像にしているのである。このような像をつくるわれわれは、まちがっていない」(p.102)と、イコンを作る正当性を述べています。

同時代の聖テオドロスは「イコンに描かれた人びとを見続けることで、見るものは原像を追い求め、原像を熱望する」(p.104)としています。
14世紀のフェオファンというイコン作家は、「自分の肉体的な目で霊的な栄光を見て」(p.70)、モデルを見ないで絵を画き、それは無からの創造と賞賛されていたそうです。

しかし、16世紀の百章会議というものによって、「イコン画家は昔の手本に従って作品を描かなければならず、自分の思いつきで描いてはならない」「また、肉体をもった像、つまり、イエス・キリストとして神を描くことはできても、目に見えない神としての性質を描くことはできない」(p.86)と決定されたといいます。

16世紀の教会会議は「イコン画家は自分の思いつきではなく預言者たちの幻影をもとに作品をつくっていると説明」(p.92)し、たとえば、「神の子羊」としてのイエス・キリストは洗礼者ヨハネの幻影を表現したものとして認められたそうです。

20世紀のフロレンスキー神父は、イコンの板でできた壁「イコノスタシスは、目に見える世界と目に見えない世界の境界線」(p.121)と表現しています。

キリスト教、とくに、プロテスタントは、視覚を用いると、さらにゆたかな霊性を汲み取ることができるのではないでしょうか。

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