325  「俺はランボオ、僕は小林秀雄」

ランボオ詩集」(アルチュウル・ランボオ小林秀雄訳、1998年、創元ライブラリ)

 ランボオは「俺は」「俺が」「俺の」「俺を」「俺に」「俺と」と言う。名は体を表す。乱暴なのだ。乱暴なランボオを語る小林秀雄は「僕は」と言う。そんなに乱暴ではないのだ。

 Facebookでは、たいていは「ぼくは」だが、まれに「わたしは」になり、「俺は」になる。ぼくは噛み付かないが、俺は吠える。俺は狂う。俺は暴露する。俺はゲロする。俺は手負いだ。俺は隠さない。俺はチラチラさせる。俺は混沌だ。俺は淵だ。俺は自由だ。俺は本音だ。俺はわかられてたまるか、わかってくれよ。俺は喜ぶ。

 難解だったが、ランボオと「俺は」でしゃべってみると、何か、伝わってきた。何もわからないけど、何か感じた。ああ、こいつは俺はだったんだなと。

 「俺の言葉は神託だ、嘘も偽りもない。俺には解つてゐる、ただ、解らせようにも外道の言葉しか知らないのだ、ああ、喋るまい」(p.21)。「外道の言葉」。ああ、解るなあ。俺は喋るけど。

 「突然、俺の眼に、過ぎて行く街々の泥土は赤く見え、黒く見えた、隣室の燈火の流れる窓硝子の様に、森に秘められた宝の様に。幸福だ、と俺は叫んだ、そして、俺は火の海と天の煙とを見た。左に右に、数限りもない霹靂の様に、燃え上がるありとある豊麗を見た」(p.24)。ああ、解らんなあ。でも、ランボオも解っていない。やつも見たものをそのまま書いただけだ。

 「俺は貴様等の光には目を閉じて来た。如何にも俺は獣物だ、×××だ。だが、俺は救われないとも限らない」(p.25)。そうだよ。俺も獣だ。狂犬だ。だが救われないなどとは言わせない。

 「この精神の乱脈も、所詮は神聖なものと俺は合点した」(p.49)。そうだよ。俺の狂気も神聖だ。

 小林秀雄ランボオをあまり乱暴には語らない。

 「彼は、未知の事物の形を見ようとして、言葉の未知な組み合わせを得たといふ事になる」(p.248)。なるほど。難解の一因は「言葉の未知な組み合わせ」にあるのですね。

 「『地獄の季節』に明らかな論理や観念を探しても無駄だ。彼は、自分で持て余した自分の無邪気さが齎した嫌悪と渇望の渦を追ふ」(p.251)。論理や観念がないから見つからないのですね。よかった。こちらが頭が悪すぎるのかと自己嫌悪に陥り、得られないものを渇望していました。

 「彼の詩は、太陽の光や海の青さや額の汗や肌の臭いや泥や糞や小便や、要するに溌剌とした生活人が掴んだ、驚くほどの生ま生ましい物質の感覚で溢れています」(p.263)。「太陽の光や海の青さや額の汗」くらいは寫眞でも獲れますが、「糞や小便」はちょっと撮りにくいです。でも、詩ならできるかもしれないですね。
 
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