「〇〇の神学」。解放の神学、民衆の神学、フェミニスト神学、エコロジー神学・・・。このような「属格の神学」は普遍的な神学ではない、という言い方を聞いたことがあります。
けれども、ことは反対で、神学は属格になって初めて普遍性を帯びるのではないでしょうか。
本書では、中南米の解放の神学者、グスタボ・グティエレスがまず登場し、鉱毒被害、貧困といった日本の文脈で神学を営んだ田中正造、賀川豊彦らが続きます。そして、「3・11」以降の著者の論考で結ばれます。(あいだに、マルコムXや西光万吉、ユング、ローマ帝国を見据えたイエスとパウロも登場します。)
グティエレス、田中、賀川の神学自体が、それぞれの生きた状況、文脈から練られた神学ですが、それを学んだ栗林先生が(日本一般ではなく)原発被害者の存在する日本で神学をなさった足跡がここにあります。
この配列にした編集が巧みだと思いました。著者と編者の合作と言ってもよさそうです。
「グティエレスの神学は・・・キリストが、ラテンアメリカの新大陸で、鞭打たれたインディオの間に顕現することを熱心に説いた」(p.45)。
「『神ハ谷中ニあり』・・・神は虐げられた残留民を見棄てず、飢えたる者と飢えを共にする――田中の信仰的言説の数々は・・・まさしくこの確信の一点に収斂する」(p.53)。
このふたつの引用からも、属格の神学が普遍神学であることが伝わってきます。
「畢竟、バベルの塔の物語とは、イスラエルの神の意図のもと、巨大テクノロジーから自由になろうとする民衆の物語だったと言えるのです」(p.232)。
これは、栗林先生が他の神学者から学んだことのまとめですが、3・11以降の文脈で、この学びは、以下のように展開されていきます。
「言葉が乱れてバベルの塔が中止になったという物語は、現代風に言えば、政府や電力業界の『原子力は日本に不可欠』という言葉がもはや私たち市民の間で通用しなくなった、ということです。電力企業の意向に沿った学者や役人が口にする安全神話がもはや信用されなくなった、ということです」(p.235)。
バベルの塔=原発、言葉の不通=安全神話の崩壊。文脈からのみごとな解釈です。
「聖書は『バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた』
(詩編一三七・一)と、故郷を失った民の嘆きを綴っていますが、それはそのまま福島の避難者たちの思いでもあります」(p.237)。
ここに、栗林先生の属性と普遍性があるのではないでしょうか。