この本は、マホメット(・・・最近は「ムハンマド」と表記することが多い・・・)の伝記でありながら、同時に、マホメットがイスラームを起こさざるを得なかった当時と同じような状況にあるわたしたち現代人をあるところへ誘おうとするものでもあると思います。
イスラーム以前のベドウィン社会は、「『血のつながり』を絶対神聖視して全てをそれによって決定」(p.32)していた「同族」社会でした。しかし、それは、その時代だけのものではなく、いつの時代にも見られるものです。血縁とは限らないとしても、利益や「空気」を共有する「同族」集団が現代社会を構成し、「同族」でないものは排除されます。
この状況に対して、マホメットは言います。「異教時代の一切の『血』の負目も賃借関係も、その他諸般の権利義務も今や全く清算されてしまったのである。また同様に、一切の階級的特権も消滅した。地位と血筋を誇ることはもはや何人にも許されない。諸君は全てアダムの後裔として平等であって、もし諸君の間に優劣の差があるとすれば、それは敬神の念の深さにのみ依って決まるのである」(p.108)。
イスラームでは預言者のひとりに位置づけられるイエス(イスラームでは「イーサー」)も似たような感覚を持っていたことが思い出されます。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ3:35)。
現代のわたしたちにも「同族」の枠を超えた、普遍的なものが必要ではないでしょうか。しかし、それは、いくら枠を大きくしても、枠を持つ、つまり、有限なものであるかぎりは、「同族」の域を出ず、普遍にはなれないでしょう。それは、無限、永遠なものでなければならないでしょう。
当時のベドウィンのもうひとつの特徴として著者は「泡沫にも似た人生の無常、存在の儚さに対する惻々と胸に迫るばかりの哀傷」(p.58)を挙げていますが、これもわたしたちにも通じるものであるでしょう。
これに対しベドウィンは「瞬間的な享楽主義」(p.60)の道しか持たなかったのですが、マホメットは「悔い改めと、『審判の日の主』にたいする懼れ」(同)の道を示します。
自分の快楽や目先の利益だけを追求し、人を傷つけても何とも思わなかったり、その自覚もなかったりする刹那的な殺人や傷害や悪政や自分本位の言動が今とても目立つように感じていますが、ここには、神とは言わなくても、人類とか生命とか世界とか歴史とか、自分をはるかに超えるものへの恐れと恐れが欠如しているのではないでしょうか。
しかし、マホメットは神の審判だけを強調したのではありません。孤児であり、家族に不幸が続いたマホメットは、神だけは自分を見捨てなかったと感じ、神の慈愛と恩寵の面をも知るのです。
「人生の無常、存在の儚さ」を乗りこえさせてくれるものは、刹那な享楽ではなく、永遠なるものが存在し、小さな自分を顧みていてくれると知ることでありましょう。