(12) 「願いを全部叶えてくれなくても、信頼する」

 「信じる」と良く言われますが、この言葉には、じつは、いくつかの意味があるのではないでしょうか。

 「宇宙人やUFOって信じる?」という場合、「宇宙人って本当にいると思う?」「UFOって本当にあると思う?」というように、その「存在」を信じますかという意味になります。

「あの人が浮気をするなんて信じられる?」「あの人がそんなひどいことを言うなんて信じられる?」という場合も、そのような「事実」の「存在」を信じますか、そのような「事実」の有無についてどう思いますかという意味になります。

しかし、ここには、もうひとつの意味も重なっているかも知れません。「あの人は浮気をするような人ではないと、あの人のことを信頼できる?」「あの人はそんなひどいことなど言うはずないと、あの人のことを信頼できる?」。このように、「信じる」という言葉には、「信頼する」という意味もあるのです。

 さらに言えば、「信頼する」にも、いろいろな場合があります。絶対に約束を守ってくれると信頼できる、絶対にうそをつかないと信頼できる。つまり、「その人は絶対に〜〜してくれる」という種類の信頼があります。

 けれども、「かならず〜〜してくれるとは限らないけれども、根本では信頼している」というような「信頼する」もあります。たとえば、親や恋人は、かならず〜〜を買ってくれるとは限りませんが、それにもかかわらず、親や恋人が自分を支えていてくれることを、自分を大事にしていてくれることを信頼する。このような「信頼」もあると思います。

 遠方の友達や大事な人たちは、いつも目に見えるわけではありませんし、こちらのしてほしいことをそのまましてくれるわけではありませんが、わたしたちは、その人たちとつながり、その人たちが自分を大事に思っていてくれると信頼しています。

 聖書には、死んだイエスが復活して弟子たちのところに現れたとあります。ここには、弟子たちが、イエスが復活したことを信じる、ということと、聖書の読者がこの物語を信じるということが重なっています。

 そして、この場合の「信じる」も、ただ「存在や事実を信じる」だけでなく、「信頼する」という意味ではないでしょうか。弟子たちは、目には見えないけれども、イエスが死んだ後も自分たちと一緒にいて自分たちを支えていてくれると信頼していました。イエスの死によっても、その信頼のきずなは断ち切れなかったのです。

 さらには、聖書の読者のなかにも、イエスは、目には見えないけれども、自分たちとともにいてくれる、自分の願いが叶わなくても、大変な出来事に見舞われても、たとえどんなことが起こっても、イエスは自分をしっかりと支えていてくれる。そのようにイエスを信頼する人びとが出てきたのです。