303  「復讐を祈りに持ち込んでも構わないのです」

詩編を祈る」(W. ブルッゲマン著、吉村和雄訳、日本基督教団出版局、2015年)

詩編の祈りは、権力者の暴力、それへの怒りをごまかすような、お行儀のよい、配慮に満ちたようなものではありません。むしろ、著者は、詩編の信仰は「大胆」(p.21)であることを明らかにしています。

詩編は「何ものにも拘束されないやり方で人間の経験を語ろうとして」(p.32)います。詩編は、「人生において絶望の淵に立たされた人々が、言葉を尽くし、情熱を注ぎ込んで歌った歌と、祈った祈りを、幾世代にもわたって集めたもの」(p.37)であり、「わたしたちの中にあるものを、余すところなく、修辞的に表現したもの」(p.130)なのです。

「修辞的に」ということのひとつは、詩編はメタファー(隠喩)を駆使しています。ですから、それは事実を伝える言葉として平板化してはならないと著者は言います。メタファーには想像力があります。想像力に満ちた言葉には現状を超えていく力があります。しかし、それは楽観や現実逃避ではなく、現状変化の「最初のしるし」(p.87)だと著者は言います。

詩編の大胆な表現のひとつに、「憎しみ」や「復讐」があります。しかし、それは個人的な恨みではなく、悪を憎むことです。悪を憎むことは避けるべきことではありません。著者は「主よ、あなたを呼びます。わたしを恥に落とすことなく/神に逆らう者をこそ恥に落とし/陰府に落とし、黙らせてください」(詩編31:18)などを引きながら「神もまた、悪を憎むことのできる方」と指摘します。

わたしたちは復讐を口にすることや、ましてや、祈りに入れることをためらいます。しかし、著者は「復讐の思いを語ることは、復讐の行為と等しいものと見られるべきではありません」(p.132)という重大なことを教えてくれます。詩編の祈りでは、復讐の思いの言葉は、敵にではなく、神に向けて語られています。ですから、それは、相手への復讐ではないのです。さらには、こうして復讐が神に委ねられた時には、祈り手は復讐の力から自由になる可能性があることが本著では述べられています。

つづけて、神の復讐は不正を正すことであることが明らかにされます。神の復讐は、「それ自体が目的であるとは理解されません。それは、正しい支配を打ち立て、それを保つために必要なことと認められます」(p.138)。また、それは「見境のない神の怒りではありません。それは正義と自由というご自分の目的に対する、神の熱情を反映するものです」(p.146)。

わたしたちは、不正なことをされると怒りますが、そこには、どうしても、それ以外のこと、たとえば、恨みや嫉妬、鬱憤晴らし、残虐さの発露などが混じってしまいがちです。しかし、神の復讐の性格に思いを馳せるとき、そうした異物が濾過されることを願いたいものです。

詩編は、上品なきれいごとの祈りでないことによって、わたしたちの心の苦痛の奥深くまで届き、それを知っていてくださる神との、いわば、泥臭い出会いを可能にしているのではないでしょうか。

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