439「ありのままでよい、(しかし、ありのままでよい世界に変わらなければならない、)世界は必ず変わる」 「カール・バルト 未来学としての神学」(福嶋揚、日本キリスト教団出版局、2018年)

 精神、感情、身体、性、言葉、背景など、わたしたちは皆、他の人とは異なっていますが、ほんらいなら、そこには優劣はなく、わたしたちは優へと変わろうとする必要はありません。ありのままでよいのです。神はわたしたちと世界をそのように創造した、と聖書は語っています。

 けれども、怒るべきことには、わたしたちはそこに優劣を持ち込み、見下したり、見下されたり、見上げたり、見上げられたりしてしまいます。そして、ありのままの生は傷つけられ、わたしたちは苦しめられ、苦しんでいます。このままではいけません。神は、わたしたちがありのままに生きられる世界に創り変えると聖書は語っています。ここに未来があります。未来とは時間の先のことではないのです。

 福嶋さんはバルトの大著「教会教義学」から「あなたは生きていて良い」というワンフレーズを引き、これは「キリスト教の福音を言い表している」(p.23-24)と言います。「人はあらゆる自己形成や自助努力に先立って、すでに生きている、つまりあるがままに生かされています。福音はこのことに目を見開かせ、人を最も深いところで穏やかにする」(p.27)。

 けれども、世界の現状はそれを激しく脅かしています。あるがままに生かされるどころか死にさらされています。穏やかになるどころか、人は人を殺し傷つけ奪っています。しかし、福嶋さんのバルト理解によればこの「死と罪過に支配された古き世界」「へと向かって」、「いのちと公正(義)に満ちた新しい世界」が「突入」します(p.50)。未来とはこのことです。

 これは「神の大いなる自由と愛」によるものですが、これによって、わたしたちも「自由と愛に生きる」「新しい人間の姿」に変革されます。いや、むしろ、現実には自由と愛に生きていないわたしたちの中にそれが「隠されつつ現われ出でようとしている」のであり、これこそが「人間が目指しうる最高の未来」(p.95-96)なのです。

 イエスも未来を切り開きます。「バルトは、イエスが体現する『社会主義以上の社会主義』を『言い表しえないもの』、つまり定義できない未来に開かれた運動と見ているのです」(p.123)。

 この『社会主義以上の社会主義』は、「国家と資本の支配を超えた」ところにあり、そこでは「人間の『自由と尊厳』が実現」されます。ですから、それは、「人間が目指す未来社会である」のですが、それだけでなく、同時に、「人間に向かって到来する何ものか」(p.124)、つまり、神によってもたらされるものなのです。

 わたしはいろいろと劣等感を抱えていて優秀になりたいなどと苦悶していますが、聖書は、ありのままのわたしでよい、そのままで受け入れると言っています。わたしは自分や自分以外の人びとに対する暴力、権力を許せませんが、聖書は、この世界を創り変えると約束し、あなたもともに歩もうと招いてくれます。

 あなたはありのままでよい。あなたにありのままを許さない世界は必ず変わります。神が変えます。ともに変えましょう。

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