「村上昭夫詩集」(村上昭夫、思潮社、1999年)
この詩集は「動物哀歌」と名付けられていますが、村上さんは動物の悲劇を哀しんでいるというよりは、動物の姿の背後に、あるいは、奥底に、永遠、世界の源泉、魂の故郷を見ているのです。これをやや丁寧に表現すればつぎのようになるでしょう。
「彼はたしかに自分ではない自分の意識の窓ガラスをたたくような根源からの音(声)に体をつらぬかれたにちがいない。その音(声)との共振を通してあらわになる遥かな逆光のような意識」。「この実存への郷愁という言葉こそ、村上昭夫の根源にあるものと言っていいだろう」。前者は、巻末に載せられた高橋昭八郎さんの、後者は辻井喬さんの村上評の一節です。
「哀歌」は「根源からの音(声)との共振」、世界の根本にたしかに存在するものへの「郷愁」と言ってもよいでしょう。
「雁の声を聞いた/雁の渡ってゆく声は/あの涯のない宇宙の涯の深さとおんなじだ//私は治らない病気を持っているから/それで/雁の声が聞こえるのだ//治らない人の病は/あの涯のない宇宙の涯の深さと/おんなじだ」
「夕暮を飛ぶ鳥の姿の中に/実験されている未来がある」「あのリスの目と/ふさふさした尾のなかに/隠し絵のような世界があるのだ」「ねずみを苦しめてごらん/そのために世界の半分は苦しむ」
哀歌は動物だけのものではありません。「紅色のりんごのつぼみが/白い花を咲かせる頃は/何処か一方の天で/超新星が爆発するのだ」「もっと静かに問わねばならないものがある/真昼のサラの花にうずくまるものを」
哀歌は動植物だけのものでもありません。「その川はなんという名の川なのだろう/流れているのは故郷の川なのに/その川はもっと遠くに/もっとはるかに/精霊の船が燃えている」「海がなつかしいのは/海の向こうに見知らぬ国があるからだ/山がなつかしいのは/山の向うに見知らぬ町があるから//空が愛しくて仕様がないのは/空の向うに」
すなおな言葉があります。「ただひとつの願いについて言えることがある/神を見ること/神の声を聞くこと/神の極限の上に立てること//そのことが/次第に色彩を濃くしてゆく虹のように/今の私から離れないのだ」
ブッダやキリストもでてきます。「ただめっぽう人のよいキリストだけが/みんな私が悪いんだという風に/ジャボリジャボリと海底深く/十三人の魂ひろいに/入ってゆかれたのである」。キリストが十字架で死に、陰府にくだったのは、ユダも含むすべての人を天に連れ帰すためだったのです。
慰めの言葉があります。「だが死ぬことがあるために/人はある日死を越えられる/鳥が雲のなかをよぎり/魚が水のなかをためらいもなく進むように/何時かふと/死を越えられる時があるのだ」
まさに辻井さんの言う通りです。「そこには、弱々しいもの、滅びゆくものに対するシンパシィが溢れている。彼の作品からは宇宙を渉る風、億光年の微かな光、そうした無機的なものと混じり合う動物たち、鳥たち、昆虫たちとの交歓のシンフォニーが響いてくるのである」。このシンパシイは村上さんだけのものでなく、シンフォニーと同じく、世界の泉から湧きあがるものでしょう。
賢治の31年後に生まれ、時代は賢治と6年重なり、生きた年数は賢治より4年だけ長いものでした。ふたりは、岩手の天と地に、同じものをいくつも見たことでしょう。
さいごに、初期のメモであって、詩ではないようですが、ぼくがとても勇気づけられた言葉を引きましょう。「こんなもの詩ではない/誰が見たって詩ではない/けれど私は書こう/詩ではない事を/なんでもないさまざまな事を/それが私の生きる事なのだから/みんなが生きる事なのだから」