「真理は『ガラクタ』の中に 自立する君へ」(大貫隆、2015年、教文館)
この本には青年たちに聖書を語るためのヒントが満ちている。それは、聖書を信じさせ、キリスト教徒にさせようというようなことではない。青年が自分の存在と不安、そして希望の根源を考え、自由という道を歩むための導きである。
屈指の新約聖書学者であり、東京大学名誉教授である著者が、高校卒業以上の者が学ぶ自由学園最高学部の長などを務めた数年の間に、始業式、終業式、卒業式などで、聖書を土台に語ったいくつものメッセージが本書には収められている。
その意味では読みやすい。ナウシカ、浅田真央などが登場したり、「聖書は『問題集』であって、『模範解答集』ではない」(p.16)、(聖書のイエスの誕生物語について)「この物語の語り手は、一つ一つの出来事が事実なのか作り話なのか、そんなこととは全く別の次元のこと(意味)を伝えたいのです」(p.19)といった青年の精神に魅力的なフレーズが登場したりする。若者にどうやって聖書のメッセージを伝えるか、頭を悩ませている牧師や教師にも有意義であろう。
若者に聖書をどのように伝えるかということだけでなく、聖書学の成果を、(ただ披露するのではなく)人生を営む人間への、生きた、掘り下げたメッセージを語るために、どのように活かすのか、良き模範集、いや問題集でもある。
大貫さんにはいくつもの著作がある。「イエスという経験」「イエスの時」の二冊はひじょうに斬新で刺激を受けたが、正直、難しく消化しきれない感もあった。けれども、本著でもこの二冊での主張がより平易に繰り返されており、非常に助かった。
聖書とは何か。「あなたが何かになるとは、あなたがすでにそうであるものにとどまること」(p.93)、これが「旧新約聖書全体を貫く福音の本質」(同)だと大貫さんは述べている。
イスラエルの民がエジプトから救い出されて神の民とされたのは、律法を守ったからではなく、神の「無条件の愛、理由なき愛のゆえ」(同)だった。紅海渡渉などの奇跡物語は、無償の愛の表現である。イスラエルの民は、この神から無条件に愛されている者にとどまるために律法を与えられたのである。律法を守ってはじめて愛されたのではない、と大貫さんは述べている。「『選民になる』とは、業績なしに選ばれたことに『とどまり』続けることなのです」(p.94)。
「イエスの目には、今衣食住によって生きている命が、すでに『神の国』での『永遠の命』と、表裏一体に見えているのです」(p.95)。つまり、この世の命からあの世の命になるのではなく、この世の命がすでに「永遠の命」なのであり、それに気づき、そこにとどまることをイエスは呼びかけているのだ。
パウロもまた、律法遵守によって何かになるのではなく、律法を守るという業績に囚われてしまっている惨めな自分、無きに等しい自分に気づき、苦しむが、そのパウロに、おまえは無きに等しい者なのではない、「お前はすでに有る」と言ってくれる神に気づき、その神を他者に示そうとする。
史的イエスの第一人者でもある著者が、史実には還元できそうもない、神の無償の愛にご自身の信仰の根を差しておられることも、今回、大変興味深く思いました。