「フランクル人生論入門」(広岡義之、2014年、新教出版社)
フランクルは名前を知っているだけとか、ぼくのように「夜と霧」を読んだだけとかいう人で、でも、フランクルのロゴセラピーってなんだろうとか気になっている人には、便利な一冊だと思います。それから、巻末に載せられているのですが、イエスの人びととの関わり方に、ロゴセラピーとの共通点を見いだそうする試みもおもしろいです。
では、フランクルはどういうことを言っているのでしょうか。本書によれば、フロイトは、人間は「性欲」と表現される「衝動」に動かされていると言い、アドラーという人は、人間は、えらくなりたい、認められたいという欲求によって生きていると言うが、フランクルは、人は「意味」や「価値」によって生きていると主張しているとのことです。
けれども、ぼくの人生にはどんな「意味」があるのかと問うのではなく、ぼくが答えなければならないのです。その瞬間、その瞬間、自分の今の生の意味を答えなければならないのです。正解を出すような答え方ではなく、自分のその時のすべてを賭けるような答え方が求められます。
言い換えますと、ぼくは「神さま、ぼくの人生にどんな意味があるのですか」と問うのではなく、神がぼくに問いかけたり、働きかけたりしていることに気づき、「ぼくは、あなたにこのように応答します」と応えることが求められているのです。
それは、その都度、言葉にしたり、行動にしたりするものであるとは限りません。フランクルは、わたしたちにはこんなことをしてきた/できるという「創造的価値」・・・これが一般的には「価値」と見なされるのでしょう・・・だけでなく、こんな人と出会った、こんなものを味わった、こんなことを考えた、感じたという「体験価値」、さらには、収容所に入れられたり難病にかかったりといった絶望的な状態でも未来を描く、未来の方を向く「態度価値」があると言います。神の問いかけへの応答には、言語や行動だけでなく、このような「態度」も含まれるということではないでしょうか。あす世界が滅びるとしても、ぼくは今日木を植えるよ、ということでしょう。
このどんなときでも未来を向くという態度は、自分という枠の外に出て、他者や神に思いを向け、出会おうとする「自己超越」の姿勢に重なります。
自分の「衝動」や「権力欲」「承認欲求」などに満ちた小さな自分を見つめることの意義は大きいと思いますが、そのように自分だけを見るのではなく、「意味」や「価値」において自分の外に応答し、自分を超越していくことに憧れることは、ぼくたちを大きな世界に位置づけてくれることでしょう。
ただし、フランクルの限界なのか著者の問題なのかわかりませんが、自死についての記述や「イエスは主として個々人の間違った考え方や人生観を正す」「道を外している人には、誤りを指摘して、正しい道を見出す」(p.257)といった表現は気になりました。