「しあわせは微笑みが連れてくるの」(ジャンヌ・ボッセ、メディアファクトリー、2012年)
ぼくのピアノと声楽の先生は、カトリック信者。イースターやクリスマスごとに、このような小さなご本をくださいます。
今回の著者は、日本に来て65年、96歳のカナダ人現役シスター。タイトル以外にも、「当たり前のことにも感謝しましょう」「子どもの心を忘れない」といった、よく耳にするメッセージ・フレーズに交じって、おおこれは!と、思わずラインマーカーを引いたところもありました。
「静かな時間を持つよう心がけましょう」「静寂のうちに、じつにさまざまな実りがあるのを感じます」(p.46)。修道生活ならではの言葉ですが、ぼくたちも、一日に一分間、眼を閉じて、手をあわせ、そこに漂う、おそらくは神さまから届く、静けさに耳を傾けてみたいと思います。
「神様は算数が苦手です」(p.66)。ほんとうに、そのとおりです。マタイ14章や18章を開いてみると、1=99とか、(5+2)÷10000=∞とか、おかしな計算が出てきます。
「心配の種はいろいろなところに落っこちています。間違って拾っても、それを養わないようにすればいいのです」(p.68)。ええ・・・でも、雑草のように勝手に育ってしまうんですが。「祈ることが大事です」(p.69)。「変えられないお天気のことで、あれこれと心配を引きずっても仕方がないことですが、晴れることを願い、祈ることで気持ちに区切りがつけられるでしょう」。はい、でも、心配が強くて祈れないんです。「それでも「祈る」ことが難しいと感じられるのなら、できるだけ日常生活のひとつひとつをいつも以上に丁寧に行ってみてはいかがでしょう」(同)。そうですね。うまくいくかどうかわかりませんが、育てない、祈る、生活のひとつひとつを丁寧に、ですね。メモしておきます。
「水は謙遜。水はいつも下へ流れる。蒸気は(高慢で)上に昇る」(p.93)。これは司教様が書いておられたことだそうです。「怒ったときはカッカとして頭に血が昇る・・・湯気が立つ・・・・でも、涙は下から上へ昇ったりしない。泣くことは、自分に素直になって下へ下へと水を流して・・・」(同)。
マザー・テレサのお手伝いをしようとしていたけれども、病気で祖国に帰らざるを得なかった女性。マザーいわく「病気の痛みを神様に捧げることをわたしたちの会のお手伝いになると考えたらいかがでしょうか。病院のベッドにいるときも、インドで活動する私たちのために祈ることはできるでしょう」。「女性は身体が痛むときにその痛みを捧げて、痛みのぶんだけマザーたちの活動がうまくいくように祈り続けました。直接には活動しなくても、痛みと祈りを捧げることで・・・」(p.138)。
今日は、イエスが十字架につけられた聖金曜日。キリストは、突き刺さり、引裂かれる激痛と、死にゆく恐れと絶望を、神様に捧げておられたのですね。神さまは、それを受け取ってくださるのですね。