点滴だけの生活を二週間経た後、ひさしぶりの食事。「点滴の取り換えの時に祈ることはありませんでしたが、この日入院してはじめて食事の感謝の祈りをしました」(p.246)。絶妙なおとぼけぶりですが、その祈りはとても神妙だったろうなと思わされます。
牧師の辞める時期については「まだやれるは辞め時で、そろそろはすでに手遅れ、辞めろと言われた時は死んだも同然」(p.277)。笑えるが、うなずけるような経験をした人も少なくないでしょう。
「洗礼を受けることはむしろわたしたちの信仰の弱さ、貧しさを知らされることであり、しかもその弱く貧しい信仰さえも赦され、支えられていることの確証でもあるのです」(p.227)。
「洗礼を受けるにふさわしくないわたしたちだからこそ神の恵みとして洗礼が与えられているのです」(p.230)。
絶対者の前で自分の相対性を知る。弱さ、愚かさ、罪深さといった自分の相対性をわきまえる。それにもかかわらず生かされていることを知る。
このアンバランスこそが、上林先生のユーモアと真実の源ではないでしょうか。