232 「すばらしくないものに崇高なものを見出す」

イエス・キリストの生涯」(小川国夫、2013年、新教出版社

 新約聖書には、イエスの伝記、すなわち、福音書が、四つ含まれています。それぞれの執筆者の立場から、イエスの誕生や30才前後の1~3年の言動が物語られています。当然そこにはたがいに違いもありますが、それをひとつにまとめて、イエス伝を描くという試みが歴史においては、幾度もなされてきました。これも、そのようなもののひとつ、すぐれた一冊に数えられます。

 イエスがキリストつまり救い主と言われるゆえんを読者に伝えられるかどうかは、そのイエス伝の筆にも拠るでしょう。小川さんは「聖書は文学的に見てもすばらしい。しかし、書いてある対象はすばらしくはありません・・・なおかつすばらしい本になっているということは、神の光がしみこんでいるからです」(p.48-49)と述べています。

 「すばらしくない対象」、たとえば、イエスは貧しい馬小屋で生まれたというようなことがらを、崇高なものにするのは、言葉の力である、と小川さんは言います。ここで、詩人ジャン・ジュネの「俺は哀れな連中を見た・・・ミゼールの世界をいやというほど見た。しかしそういう世界の連中こそ、救いを待ち望んでいることが分かった」という言葉が引かれています。言葉の力は、このような神秘から生まれる、と小川さんは言うのです。

 この神秘は、詩人や聖書の言葉だけでなく、本著の小川さんのこのイエス伝の地の文、そして、聖書の引用に用いられている「ぼくの訳」にも現われています。解説者によれば、小川さんによる聖書の訳文は「意訳」であり「学問的に厳密な翻訳ではない」、つまりかならずしも「すばらしくない」のですが、「最も大切にするところの意味を汲んで、独自に好ましい日本語に移した」(p.246)ものなのです。読者はそれを十分に味わうことができるでしょう。また地の文も講演を文字におこしたものであり、書き言葉として読めば、これまた、かならずしも「すばらしく」ありませんが、その素朴さと情熱から、「崇高なもの」が伝わって来ます。

 小川さんは、そこに語られている意味をしぼませないために「福音書をありのままに受け入れる」(p.239)立場で、自分に理解できないものがあることを認めたうえで、それでも、理解できそうなものは理解しようとしています。

 その一例として、「ぶどう酒」についての小川さんの解釈はとても新鮮です。「聖書の特徴としてぼくが感じるのは、心と同じように強く現われてくる物です。ぶどう酒であっても、石であっても、オリーブの木であっても、魚であっても、物が強い意味を帯びて現われてくる」(p.94-95)と断った上で、イエスがぶどう酒を取り「これは私の血だ」と述べたことについて、つぎのように理解しています。

 肉親は本当の血で結ばれているが、イエスは、万人は愛で結ばれることを語り、その象徴としてぶどう酒を定めたと。

 血縁も他の縁も、縁はともすれば欲や排除や暴力に容易につながってしまいますが、そのような「すばらしくない対象」「ミゼール」の中に「崇高なもの」を見いだそうとする表れが「ぶどう酒」を「これは私の血だ」とするイエスの言葉なのかも知れません。

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