233 「風はどこから吹いてくる」

「行き詰まりの先にあるもの―ディアコニアの現場から―」(富坂キリスト教センター編、2014年、いのちのことば社

 風のように身軽だけれども大地の一本道のようにまっすぐな先輩が執筆者のひとりであり、敬愛する大先輩が書評を書いておられたので、ぼくも読んでみることにしました。

 心身障碍者(と呼ばれる人びと)、ハンセン病施設での半生を余儀なくされた人びととともに生きる現場・・・いわゆる「社会福祉」の現場・・・に長年深くかかわって来られた面々が、それぞれの歴史や現状、展望、思い、考察を報告、執筆しています。

 それらを受け、ひとりの執筆者が、「ディアコニア(愛の奉仕)」について、聖書やキリスト教の歴史から論考し、さいごに、風のような先輩が、ご自分の信仰史、経験、「ミッシオ・デイ」の神学、それを受けた日本基督教団「宣教基本方策・宣教基礎理論」から、巻末にふさわしい一文を書いておられます。

 各現場の報告は、深く、重く、生き生きとし、考えさせられ、あらたな気づきをくれ、大切なことを思いださせてくれます。ぼくにとって、20年近く前にしきりに関連本を読んだ「べテルの家」からの報告は、懐かしくもあり、最近の自分の文脈のなかでは置き去りにしていたとても大事なことを思い起こさせてくれました。

 父が病院のベッドに横たわり何も言わず反応もしなくなり、それが常態化してきて、胃ろうなどについての判断が求められたころ、ぼくは、「保険の範囲内で」「通常医療の範囲内で」という基準から胃ろうに賛成しました。けれども、それを越えての延命には否定的でした。胃ろうを「延命治療」とは考えなかったから受け入れたのであって、「延命治療」と考えたら、「そこまでして・・・」と思ったかも知れません。尊厳死ということは考えませんが、「無駄な延命治療」は止めるべきだとは思っていました。

 しかし、「『延命治療』をせずに死を迎えることが尊厳のある死である」とする考え方は「『人工呼吸器を使って生きる』、『胃ろうや経管栄養で生きる』という重い障がいのある人々にとっての『あたりまえで、かけがえのない生』を、『尊厳のない生』としてしまう危険性を孕んでいます」(p.236)と、本書の中で指摘されていて、これには認識をあらためさせられました。

 本書は、ディアコニアについてさまざまな角度から述べられているのですが、巻末の一文では、「『奉仕』とは、しるしであって手段ではなく、他人を改宗させる手段でもなく、すでに存在している神の国のしるしです」(p.275)という見解から、「この世のさまざまな場面に神の働きを見いだし、神の声を聴く必要があります」「『奉仕』が、教会のこの世に対する神の働きの場面であるとすれば、私はその場面において神の国のしるしを見いだす必要があります」(p.276)と展開されています。

 この信仰が執筆者に風のような驚くべき身軽さを与えているのだなと納得しました。

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