212 「歌は自分、それとも、他者」

 映画「ゴスペル」(2014年、松永大司監督)

 黒人でもない、キリスト者でもない日本住民がゴスペルを歌っています。それをどう考えたら良いのでしょうか。この映画には、そういうテーマがあるように思いました。監督はとくに判断をくだしていないようですが。

 アメリカのゴスペルシーンをいろいろ観られる映画だと勘違いして出かけたら、邦画でした。日本のキリスト教内外、そして、アメリカの教会で、人びとが歌う姿が描かれています。
 
 ぼくは、最近、目を閉じ、手を合わせ、祈ろうとするとき、ぼくの前に広がる静けさに、神さまを感じ、この静けさに委ねることは、神さまに自分や人生を委ねることと重なるように思っています。

 しずけさのなかに神さまがおられ、しずけさにまかせる。神さまに自分をまかせる。神さまに自分を開く。

 「しずけさ」を「歌」に換えても、良いかもしれません。

 キリスト者キリスト者でない、黒人、黒人でないということではなく、映画の中には、ふたつのタイプの人びとが見受けられました。

 歌にのめりこんでいる、あるいは、そうしようとしているけれども、あくまで自己陶酔であって、はっきり線を引き、閉じてしまっている人びと。

 歌にのめりこむ、いや、歌の中におられる神さまに委ねている、あるいは、委ねようとし、線を引かず、自分を開いて、歌を自分の中に受け入れる、あるいは、自分が歌の中に入って行こうとする人びと。エクスタシー=外に立つ、自分の外に出ることを求める人びと。

 礼拝で讃美歌を歌うぼくは、前者ですが。

 キリスト者でない人びとがゴスペルを歌うべきでないなどとは思わないし、やがて信仰を期待するなどと言うつもりもありませんが、外に出てほしい、と思います。垣根を造ってほしくない。垣根の中で歌っている人と、垣根なしに歌う人、その違いを、この映画で感じました。ストレス発散、自分の中から何かを発散するだけでなく、自分を開いて、自分の中に歌そのものを受け入れてほしいし、歌そのものの中に入ってほしい、自分ではない歌になってほしいと考えたりしました。ぼくの課題でもあります。

 礼拝では聖歌隊やオルガンによって賛美がリードされるわけですが、伴奏以上に、会衆を歌の中に誘う役割が大切だなと思いました。ぼくなど、音程やリズムをまちがわないように歌うのが精いっぱいですが、それでは、人びとを自分の外に導き出し、賛美の中におられる神さまのところに招き出すには、弱いかも知れません。もちろん、招き出すのは神さまですが、もう少し、そのお手伝いをまじめにしなければと思いました。

 亀淵友香さんのインタヴューがけっこう出て来ますが、かなりしっかりした考えの人だなと思いました。

 一時間弱なのに1800円、うすっぺらの小さなパンフなのに500円、それから、D.C.先生やHis friends in FJ Universityが登場しない、それが残念。

 http://www.g-film.net/gospel/