「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」(三浦綾子、1989年、小学館)
女子学院の初代院長、キリスト教婦人矯風会会頭を務めた、幕末、明治、大正の女性。新島八重とほぼ同じ時代を生きた。
新島八重と言えば、同志社。そこに学び、のちに同志社を側面から支援する徳富蘇峰、蘆花兄弟は、楫子の甥。
けれども、彼らは、楫子に厳しかった。離婚したことや結婚外の子を産んだことについてである。そこに彼らの時代的限界も描かれ、八重や同志社側からの好意的な徳富兄弟像に別の面を補ってくれる。
三浦綾子は、一方では、妻子ある男性との楫子の愛を罪とし、それを赦す神の愛、また、神の愛を表現して生きるキリスト者との出会いを描いている。
他方、さすがに離婚については最初から罪には位置づけていないが、家族のいる男性とねんごろになることについても、楫子を理解しようとする。楫子もこんなことで良いか悪いか、揺れていたようであるが、それを正当化したくなる気持ちも汲もうとする。楫子の姉は、維新十傑のひとりと呼ばれる横井小楠の、当時は公認されていたとはいえ、妾として嫁がされている。楫子は、ならば、その男性に家族がいようとも、自分は独身なのだから、妾と変わらぬ立場であり、やましくないと思おうとしたことを三浦は描く。
つまり、楫子がこの男性と親しくなり、子をもうけたことについて、三浦綾子は、罪として描きながら、同時に、社会が男性優位であったと訴える材料にもしているように思えた。
明治期のキリスト教は、アメリカなど西洋近代社会から学び、あたらしい世の中を創造するという文脈におかれることが多いが、楫子の場合は、罪と赦しという角度から描かれているのが三浦綾子らしいとも思った。じっさい、明治期のキリスト者が聖書やキリスト教のどんな点に魅かれたのかは気になるところだが、なるほどという説明にはなかなか出会えないでいる。
また、矯風会の発展やそこに集まった人々を見て、男性優位社会から女性が解放されていく過程についていえば、明治期は、反対や障害がありながらも、明確な訴えに対して、賛同や協力を得やすい社会ではなかったかと思った。
今の時代は、単純明快、まっすぐな理念だけでは、社会運動を起こし、人びとを動かしていく力にはなりえないように思える。かと言って、複雑、多角的になれば良いというわけでもなさそうだ。
明治期に「女性は男性から解放されなければならない」というメッセージが持ったのと同じくらいの、普遍性と活気と希望を持つ理念は、今の時代、どういうものであろうか。
そんな単純なものはないとして、複雑に考えるべきなのか。しっかりと見いだすべきなのか。その両方なのか。どちらでもないのか。