209 「人の沈黙、神の沈黙」

 映画「大いなる沈黙へ   グランド・シャルトルーズ修道院

 神自身が沈黙、だとぼくは思う。神に祈ろうと、手をあわせ、目を閉じた時、立ち位置の前に広がる沈黙。この沈黙は、まさに、神自身、あるいは、神の臨在のしるし。

この沈黙に委ねたい。沈黙が、ぼくの騒ぐ心の中に入ってきてくださり、喧噪に代わって、ぼくを満たしてくださるままに委ねたい。

今日、月曜日。ぼくは、日曜日の仕事に疲れ、眠りたがる体を携え、映画館の席に座った。映画に委ねようとすれば、眠ってしまう。目覚めていようと自分の何かを働かせなければならないが、それが喧噪になり、沈黙に浸れない。眠いのに、まわりの咳(これは仕方ないんだけど)や、がさこそは、ぼくをいらつかせる。映画の感想も、これに縛られてしまっていることだろう。

パンフレットで、音楽文化研究の大学教授が、「修道士が何をおもっているのか、あたまのなかでどんなことばがうごいているのか、どんなおもいがありどんな感覚でいるのか、映像をみるものは考える」と記している。

 目を閉じれば、彼らも沈黙の海に浸るのだろうか。けれども、それを映画で伝えるのは容易ではなかろう。

 同じくパンフレットで、評論家の川本三郎さんが、井上ひさしが神というよりも、神を信じて自分たち孤児院の子どものために献身してくれた修道士たちを信じた、ということを挙げている。修道士たちを通して神を垣間見る、とすれば、言い換え過ぎか。この映画はそれに成功しているのだろうか。

 この映画には、散髪や料理や雪遊びをする修道士たちの姿や、修道院を包む山や森や空が描かれている。大いなる沈黙は、御御堂でのミサだけでなく、そこにも満ち満ちているという監督の思いなのだろうか。

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