「境界の町で」(岡映里、2014年、リトルモア)
三十代の女性編集者。3・11からの3年間。2011年4月10日。彼女は福島県郡山市に到着した。
そこで、出会ったのは、原発労働者派遣業の元ヤクザ。その「お父さん」の町会議員。若い原発労働者たち。4歳年下のOL。合計10万字にもなる頻繁なメールで気持ちをぶつけてくる元ホストのY君。93歳の寝たきりのお母さんを動かすと死んでしまうからと警戒区域に住み続ける女性。
彼女はなぜ福島に行ったのか。ぼくはなぜ被災地に行くのか。
プロローグでは〈「本当に会いたい人」を探すために〉(p.17)と言っている。たしかに、ぼくの場合も、人に対する飢え渇きも関係していると思う。彼女は、やがて、務める出版社に出勤できなくなってしまう。被災地に行くのは、その人の強さというよりは、むしろ、脆さと関係しているのではなかろうか。
出会った人々はやさしかった。こんな気持ちは久しぶりだった。その分、彼らの痛みを無視できなかった。彼女は、福島で「共感したい、同意したい、同化したい」(p.110)と願った。けれども、彼女の「言葉も瓦礫になった」(同)。「言葉にした瞬間すべて嘘になった」(同)。
そこで写真を撮っても放射能は写らない、おまえはこの地域にハマっているだけだ、シャブ同様ハマるとやばいぞ、とは原発労働者派遣の親方。こんなことを言ってくれる人。それを受け止めた彼女。自分は、壊れた町、荒れ果てた町の風景を撮り、盗っている、彼らの言葉をICレコーダーで録り、盗っている。
思い知らされる、徹底的な自己本位。どこまでも自己中心。しかし、それでも、出会った人は「他人」から「知り合い」、そして、「大事な人」になって行く。
そこにもうひとつのわな。「福島の代弁者」(p.223)のように振る舞いはじめた。けれども、ある作家の言葉が、そんな彼女をやっつけ、救う。
「福島を消費したくなかった」(同)。
消費するのではなく、彼らを「忘れられる存在」(p.227)にしないためにと悩んだあげく、彼女は、ある痕跡をその身に引き受け、同時に、ある祈りを抱く。
被災地を訪ねれば、誰かを助けることができるのだろうか。もしそういうことが少しでもあるとしても、それは、直接ではなく、自分という人間が根底から問われるという迂回路を経てのことだろう。
ぼくもこれからも被災地を訪れつづけよう。その理由は彼女のそれと似ている。