演劇「イーハトーボの劇列車」(脚本:井上ひさし、主演:井上芳雄、2013年)
宮澤賢治の評伝劇。ただし、聖人伝ではない。井上ひさしは賢治を深く読み込み、愛し、その文学の継承者であるのだが、師を美化も神格化もせず、デクノボーとして描く。
父に反発しつつ、父の金をあてにする。
浄土真宗の父に逆らい、遠いどこかではなく今いるこの世を浄土にという日蓮主義に傾倒するも、それなら、岩手というこの世を浄土とすべきであり、東京という別世界を目指すべきでないと父に論駁される。
殺生を否定しているが、牛肉をふるまう高給社員から資金提供を受けそうになる。
自分は百姓だと言うが、親がかりで生活し、作物をただで配ったり、役に立たない花を栽培したりする百姓などいない、となじられる。
百姓は芸術家だ、百姓も音楽を、と啓蒙するが、百姓の指は太くて、鍵盤を二つ同時におしてしまう、オルガンなど弾けるかと怒られる。
丈夫ナカラダを持つことはできなかった。
家族や百姓からはクニモサレた。
死んだあとからの話だが、ずいぶんとホメラレテいる。
サウイフモノニなれなかった。
ただひとつ、デクノボーにだけはなれたかも知れない。百姓の真似をしたがるお金持ちの坊ちゃんなど、野菜をタダで配り、花を栽培する偽百姓など、デクノボーに他ならない。
百姓の姿に痛みを感じ、百姓の窮状をなんとかしようとする。苦しんでいる人を見て、心を痛め、じっとしておれず、その苦しみがなんとかならないかと、自分の身の振り方をあれこれ試行錯誤する。しかし、どうしても、その人と同じ立場にはなれない。なったと言えばうそだ。百姓は百姓の立場になろうしなくても最初から百姓の立場だ。苦しんでいる人は苦しんでいる人の気持ちになろうとしなくても最初から苦しんでいる人の気持ちだ。しかし、百姓でない者や苦しんでいない人は、後からそうなろうとする。けれども、なれない。なろうとしてなれないデクノボーだ。
宮澤賢治、しかり。一時期の太宰治、しかり。井上ひさし、しかり。ぼくもしかり。
3・11以降、「死者」を語る文学が目につく。しかし、それは、たとえば、「銀河鉄道の夜」の主人公でもあった。「イーハトーボの劇列車」で賢治の亡き妹トシ子を車掌とする列車が駅を発つ。乗客から集められた「思い残し切符」が観客に向かってまかれる。
ぼくたちは、死者の思いに立てるのだろうか。立てないのであれば、どうするのか。立っているふりをするのか。立てないデクノボーであることを自覚するのか。あるいは・・・・