114  「原発とは、日本が腹に呑み込んだアメリカか」

「「幸せ」の戦後史」(菊地史彦、2013年、トランスビュー

 日本社会は勤勉にアメリカ的なものを学んだ末に、アメリカよりもアメリカ的になってしまった。アメリカを単純に模倣したのではなく、日本的な味付けをし、「もうひとつのアメリカになった」(p.322)と著者は言います。

 村上龍アメリカが日本を暴力的に支配していると明白に語ったが、田中康夫アメリカと日本は男女間の抜き差しならない関係に見立てた。そして、村上春樹は、日本の内部の「アメリカ」に恐怖を覚え、疑似アメリカ的な世界の小説を書いた、とも述べています。

 そのうえで、あとがきでは、アメリカの核戦略のもとで日本の原子力政策が展開され、福島第一原発の事故に至ったこと、また、第五福竜丸事件後の反核・反米運動を抑えるためにアメリカは核の「平和利用」を言いだしたこと、日米原子力協定によって日本はアメリカの核技術の「出先実験所」の役割を果たすことになったことを指摘しています。

 原発とは日本の中の「アメリカ」であり、村上春樹がそれに覚えた恐怖が、3・11によってもっとも明確かつ大規模に現実となったと著者は言いたいのでしょうか。日本の中の「アメリカ」は他にもあるのではないでしょうか。

 本書の第一部では戦後の労働社会について述べられ、未来というものがあり、そこでは自分は今より良い状態になるかもしれないという想念を、かつての日本企業の労働者は抱くことができたが、90年代以降の企業のあり方は、労働者から未来という観念を奪うものとなったこと、企業にとって、未来は明るいものではなく、リスクがあるものとみなされ、そのリスクを最小にするためにリストラが進められたという、ひとつの結びがあります。これも日本流になった「アメリカ」なのかもしれません。

 第二部では家族の変容について述べられ、総中流意識やオタク、オウムなどについて論じられています。

 そして、第三部は「アメリカの夢と影―労働・消費・文芸」と題され、第一部、二部で展開された、戦後の労働社会や家族の変化は、アメリカを追いかけ、それを呑み込む過程でもあることが示されます。

 日本はアメリカ的な、あるいはアメリカ以上の豊かな消費社会となります。消費は家族のものから、個人のものになっていったことを、コンビニやウォークマンの登場が示しています。
 
 しかし、「豊かな暮らし」という社会意識も終了して、二千年代を迎えたところに、原発大事故が起こったのです。

 「「幸せ」の戦後史」はこうして終わるのですが、311以降、わたしたちは幸せをどのように考え、どのような歴史を残していくのでしょうか。これからも、腹の中にいくつもの「アメリカ」を抱えたままでいるのでしょうか。


http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E5%B9%B8%E3%81%9B%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%8F%B2-%E8%8F%8A%E5%9C%B0-%E5%8F%B2%E5%BD%A6/dp/479870136X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1372925339&sr=8-1&keywords=%E5%B9%B8%E3%81%9B%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%8F%B2