「マルティン・ルター ―ことばに生きた改革者」(徳善義和、岩波新書、2012年)
信仰のない人は、神に救われないのだろうか。
信仰の弱い人は、どうなのだろうか。
信仰によって、神から義とされる(神の前に立つことが許される、滅ぼされない、という意味だとされている)、とパウロは述べ、ルターは、それを再発見した。
では、どのくらいの信仰が求められているのだろうか。かりに、信仰の最高レベルを100としたら、何レベル以上の人が救われるのだろうか。わたしは何レベルなのだろうか、いやわたしはマイナスレベルだ、と不安になる、というより、そう告白しない自分は露骨に傲慢で、受け入れることはできない。何レベルにも達していないわたしは救われないのだろうか。
けれども、神の義とは、神からの「恵み」であり、イエス・キリストという「贈り物」(p.38)であることをルターは発見した、と本著にはある。安心した。
それもつかのま、さらに何ページかめくると、神は義という贈り物によって人間を新しく造りかえるということを「信じることによってのみ」(p.49)、人はその贈り物を受け取ることができる、とルターは説いた、とある。やはり、信仰がなければ救われないのだろうか。
本著は、日本のルター研究の第一人者によって書かれたものであり、ルターの歴史物語のスタイルを通して、その信仰をわかりやすく述べている。しかし、上述の点がわたしには明らかではない。
神は贈り物として、つまりは、代価無しに、無条件に人を救う、ということと、人は信じることで救われる、ということの間の大きな幅のうちに、神の救いや人間の信仰があるのかもしれない。
本著の新鮮な点は、ルターは神学議論のためではなく、一般庶民が聖書の伝える神の救いを理解するために宗教改革をたたかったという指摘、それにもかかわらず、一揆を起こした農民やユダヤ人をきわめて不利な状況に追い込む著述をしてしまったというルターの限界を認めていること、そして、ルターの生涯を「ことば」と彼の関係から展望したことなどにある。
ルターは、聖書は「教えてください」という「祈り」をもって読むべきだ(p.178)、と説いたという。「五感のすべてを挙げて繰り返し読むことで初めて、聖書のことばは心に深く入ってくる」。
救いは、あくまで、神からの無償の贈り物であるとしても、その贈り物である「ことば」を心の深いところにまでお迎えする生き方、読み方には、つねに憧れていたい。