73 「対話が育ちますように」

「わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か」(平田オリザ講談社現代新書、2012年)

 これは、プレゼンや人づきあいがうまくなって仕事や人生で成功しよう、などというイカサマ・ハウツー本ではありません。むしろ、それへの疑問です。

 劇作家であり、阪大コミュニケーションデザインセンター教授である著者は、近代演劇では「対話」が最重要視されると言います。「対話」とは「あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも価値観が異なるときに起こるその刷りあわせなど」(p.96)のことですが、日本社会にはこの「対話」という考えがほとんど存在しないというのです。

 著者は、この日本の子どもたち、若者たちに、「察しあう・わかりあう日本文化に対する誇りを失わせないままで、少しずつでも、他者に対して言葉で説明する能力を身につけさせ」(p.101)たいと願いつつ、同時に、「対話的な精神」とは、「異なる価値観を持った人と出会うことで、自分の意見が変わっていくことを潔しとする態度のこと」(p.103)だと述べています。つまり、コミュニケーションとは、自分の考えをうまく伝えるだけでなく、相手の声に耳を傾け、さらには、そこから何かが創造されることなのです。

 平田さんはさらに、対話の冗長率の重要性、日本の近代国家の国語形成において「対話」の言葉育てがなおざりにされたこと、たとえば、「対等な関係における褒め言葉」、女性上司が男性部下に使う言葉の欠落などを説得的に指摘しています。

 本著の中で、もう一つ、重要な点を挙げれば、「弱者のコンテクストを理解する能力」の必要性の指摘です。「社会的弱者は、何らかの理由で、理路整然と気持ちを伝えることができないケースが多い。・・・・・・私は、自分が担当する学生たちには、論理的に喋る能力を身につけるよりも、論理的に喋れない立場の人びとの気持ちをくみ取れる人間になってもらいたいと願っている」(p.183)。

 平田さんの指摘通り、ここは対話が不景気な社会です。職場、サークル、政治、宗教、医療などの場が対話的になれば、どんなに景気が良くなることでしょうか。それにはきっと革命が必要でしょうが、自分の周辺にひとつ、ふたつ、そういう場を創造し、確保するために歩み始めたいという思いが強まりました。