72 「救われるはずがない彼・彼女らの救い」

「イエスパウロ キリスト教の土台と建築家」(G. タイセン著、日本新約学会編訳、教文館、2012年)

 この本はタイトルの通り、イエスパウロを取り扱っています。
 
 歴史上の人間(としての)イエスは、自分自身を神として示すことはなく、自分が根本的な信頼を寄せる神について、おもにはユダヤの人々(固有の地域の人々)に伝えようとしました。

 けれども、パウロやペトロら、最初のキリスト教を築いた人々は、このイエスはキリストであると信じ、そのキリストへの、あるいは、このキリストを通して働きかける神への信仰を、ユダヤ人以外の人々、つまり、異邦人にもたらそうとしたのです。

 イエス自身による教えと、イエスをキリストとする信仰は同じなのでしょうか。パウロの手紙などを読みますと、イエスのこんな「教え」に倣おう、というようなことはあまり出てこず、むしろ、十字架につけられ死に復活したというキリストの出来事が読者を救う、ということが中心になっているように思えます。では、両者は別なものなのでしょうか。

 タイセンは、歴史上のイエスは「神の足跡をこの世で探し求める人間の側に立って」(P.167)おり、他方、パウロらが伝えるキリストは「神の側に立って」いて、両者の間にはある種の緊張はあるけれども、表裏一体の密接な関連があるとし、その関連について、大胆、壮大、魅力的に詳述しています。

 タイセンのゆたかな構想力は、パウロの信仰の深化についての叙述においても、いかんなく発揮されています。当初キリスト者を迫害していたパウロは、その活動の道中でたおれ、そこで復活したキリストに出会い、劇的な改心をしたと述べられることが多いのですが、タイセンは、聖書の記述を材料に想像力をも発揮させながら、パウロにはいくつかの段階があることを示すことで、パウロの信仰を厚みのあるものとして描いています。
パウロの宣教を阻むものは律法主義者の独善性とされがちですが、タイセンは、当時のローマ帝国の宗教政策をも考慮することで、記述を立体化することに成功しています。

 「信仰による救い」がパウロ神学の核心とされる傾向がありますが、これは、いわば、パウロの展開の一側面であり、さらなる展開があってはじめて、律法をもたない罪人=異邦人も、キリストを信じないイスラエル人も、パウロの救いのヴィジョンの中に入れられるのです。